創立前史



1921年

  • 11月、大川隆法(本名:中川 隆)の父・善川三朗(本名:中川忠義)、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・吉野川市鴨島町)に生まれる。
地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていたが、その生活は村でも最底辺であったという。その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活はいっかな好転せず、昭和9年、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。
麻布台のボロ家に身を寄せた一家は思い思いの働きで、貧しい家計を支えた。忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった生長の家の門をたたき、谷口雅春からじきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)

1948年

  • 忠義、日本共産党徳島委員会に顔を出し、『徳島新報』の編集兼発行人になる。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙『徳島新報』の編集兼発行人をつとめていたという。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)
「中川さんが徳島市内にあった共産党の県委員会に顔を見せたのは、1948年ごろでした。入党したい、と言ってきたのです。たしか社会党籍があったんですが、片山内閣が右よりになってきたので飽きたらないと言っていたと思います。宗教の話など、何もしていなかったですよ」こう証言するのは、49年から共産党の徳島県委員長となった高橋道夫だ。
「この顛末を暴露しようということで、新聞を発行しようということになりました。このとき、中川さんが事務所にきていたんで、責任者になってもらった。発刊の辞、記事、それに割付も中川さんの仕事でしたね。(略)」当時、「忠義」を「只芳」というペンネームに変えて使っていたので「ロハさん」とみんなから呼ばれていた。高橋は中川が温厚な性格だったことや妻となる君子との出会いなど当時を振り返る。「(略)奥さんと知り合ったのも当の事務所に出入りしているころのこと。君子さんはお兄さんがやっていた理髪店で働いていた。私たちはそのお兄さんと税金闘争で知り合ったんです。私も中川さんも髪が伸びるとそこへ行ってタダで切ってもらっていました。そんな縁から中川さんは君子さんと知り合ったのです」(有田芳生『幸福の科学を科学する』

1950年

  • 忠義、共産党の内部分裂で『徳島新報』から手を引く。
1950年の党中央の分裂は、県党にも深刻な影響を与えた。(中略)中川只芳、富永圭一郎など、県内の古い活動家を党活動から排除するように仕向けるなど県党に大きな損害を与えた。(「わが地方の日本共産党史(徳島県)」・『前衛』1984年11月号掲載)

1956年

  • 6月、大川隆法(本名:中川 隆)、父・忠義と母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町(現・吉野川市川島町)に生まれる。
  • 7月 7日、大川隆法、出生届。

1962年

  • 9月、共産党中央委員会の評論誌『文化評論』10月号に短編小説「奴犬」が著者・中川只芳名義で掲載。
「中川只芳さんは大正11年生まれ、40歳、徳島県在住。前党地区委員。現在は製針工場労働者。応募作品『奴犬』は処女作」(『文化評論』誌に掲載された中川の経歴)
朝鮮戦争当時、警察が中川とも読み取れる共産党員の家宅捜査をする場面を描いた作品で、『アカハタ日曜版』に応募したものだった。小説の最後はこう結ばれている。「―――まるで、奴犬よ―――その母の、奴犬という言葉には、ひときわ力が籠っていた。 ―――あらゆる機会をとらえて味方の力を最大にし、大衆の力で敵を孤立させる―――等のこの基本的戦術に私は忠実であったか。直ちに追打ちをかけるべきだった」(有田芳生『幸福の科学を科学する』

1964年

  • 4月、忠義、社団法人・徳島県畜産会に就職
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教、GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)

1965年

  • 8月22日、木村恭子(後の大川きょう子)、秋田県由利郡矢島町(現・由利本荘市)に生まれる。

1972年

  • 徳島市の城南高等学校に入学

1975年

  • 城南高等学校を卒業するも受験に失敗、京都大学に進学していた兄・力の許に転がり込み駿台高等予備学校に通学

1976年

  • 4月、東京大学に入学
やはり城南高校から東大文Ⅰに進んだある同期生は、『学者になるには最低三か国語をマスターしなければいけない。ぼくはリンガフォンを買って勉強しているんだ』という隆のキャンパスでの言葉を妙に生々しく覚えている。だが、法学部政治コースに進み、篠原一教授のゼミに入ったものの成績は上がらず、東大に助手として残るとの夢は砕かれた。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)


ヨーロッパ政治を専門とする 篠原教授は70年代に、各国の政治状況を研究し、連立政権のシステムが優れているという立場を明らかにした。 主張の違う各党が互いに政権内で議論をすることで、政策議論が深まるという意見である。篠原教授は公明党が「ピボタル・パーティー」として役割を担うことを期待していたが、その主張は90年代に現実のものとなる。93年に細川政権の発足で自民党の単独支配に終止符が打たれると、そこから日本の政治は連立時代に突入。99年には公明党が自民党政権に連立相手として加わった。
しかし、 連立政権は決して日本政治の安定を意味しなかった。 連立政権内の少数党は政権内の政策議論を深めるどころか、逆に「我が党が連立から離脱すれば、国会の多数派形成は困難になる」という立場をカードにして、自党の政策を呑ませる事態もたびたび発生した。鳩山由紀夫政権に参加した社民党が、沖縄の米軍普天間基地の県外移設に固執し、国防政策を振り回したのは記憶に新しい。
複数党が政権に参加する政治を提唱した篠原教授の政治学は、多くの一般市民が政治に参加することを理想とした。 コーポラティズムと呼ばれるこの思想の落とし子と言えるのが、市民運動家から首相にまで登りつめた民主党の菅直人氏だった。70年代にがんを患った篠原教授は、「丸山ワクチン」と呼ばれる療法で治癒に成功。このワクチンを広げる運動を行ったが、そこで親しくなったのが菅氏だった。
篠原教授に教えを受けた菅氏は、厚相時代に薬害エイズ問題の追及で脚光を浴び、2010年には首相に就任する。しかし市民運動家上がりの首相は、統治能力の不備を露呈する。 同年秋には中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に体当たりする事件が起きたが、菅政権は中国の圧力に負けて船長を解放してしまう。首相になって2カ月後に、「改めて法律を調べてみたら、(首相は)自衛隊に対する最高の指揮監督権を有すると規定されている」とビックリ発言をした菅氏は、 国防はおろか憲法の基本的知識すら欠いていた。 11年の 東日本大震災では、30個近くの会議を次々と立ち上げるなど対応が迷走。さらには、辞任表明をしながら首相に居座るなど、政治家としての誠実さにも大きな疑問符が付いた。
菅政権の崩壊に加え、 「討議型デモクラシー」と篠原教授が呼ぶ市民参加の政治がどこまで有効なのかは、民主党政権のダッチロールでクエスチョンが付いたことになる だろう。確かに多くの意見について議論を尽くすことは民主主義にとって大切だが、一般市民の意見をその都度聞いて政治を行うのなら、 マスコミが作る「世論」に政策が大きく左右され、衆愚政に陥りかねない。 例えば、菅政権の後を受けた野田政権は、原発政策について市民に討論をさせ、討論前と討論後の意見の変化を見る「タウン・ミーティング」を行った。しかし、マスコミが反原発の議論を常に流していれば、タウン・ミーティングの結果が原発反対に偏ることは目に見えていた。
また篠原氏は、外国人にも住民として政治に意見を反映させる権利があるという立場に立っていた。実際に民主党政権下では、外国人に地方参政権を認めるという議論が活発に行われていたことは記憶に新しい。しかし、 国籍を問わず住民が誰でも政治に参加できるシステムは、国防上の重大な問題をはらんだものである。
このように、篠原教授は日本の政治に長らく影響を与えてきた、日本の政治学の権威と言える。小党の意見に振り回される連立政治、無能をさらけ出して瓦解した菅政権など、 自身の思想が反映された政治の行き詰りについて、篠原教授はどのように考えるのか。公開霊言で篠原教授の守護霊は、コーポラティズムの思想を擁護しつつも、公明党や菅氏に対して苦言を呈している。市民の政治学の「その後」を、篠原教授はどう見通すのか。
こうした教え子の「今」を、元担当教授である篠原教授はどのように見ているのだろうか。大川総裁の立ち上げた幸福実現党は、神仏の心を心とした徳治政治を実現することを目指しているが、政治学者の目に、この動きはどのように映っているのか。 政治思想的には対立する立場にあったかつての教え子 を、元担当教授はどのように見ているのか。
本霊言で 篠原教授の守護霊は、幸福実現党の思想が、もはや東大政治学でも分析できないほど大きなものであることを語り、日本の政治に新しいうねりを起こしつつある幸福実現党にエールを送っている。 篠原教授はまた、「教え子が活躍しているってことは、教師としてはうれしいことではある」と述べるなど、巣立っていった教え子のその後を温かく見守る姿を垣間見せた。

294 :名無しさん@九周年:2009/05/29(金) 19:46:42 ID:rvDFhTGP0
中川隆君(今は寺の坊主とかと一緒で宗教的事由によって法的にも大川隆法に改名したんだったっけ)はですね、
東大法学部の篠原ゼミ(ヨーロッパ政治思想)に出てたんですよ。
研究者志望の人がそれなりにいるゼミ(その後東大法学部教授になったのもいる)。

でまあ、彼は口数の少ないおとなしい人ったわけ。
残念ながら(?) 地頭のいいタイプじゃなくて (というかむしろかなりガッカリ系)、
地方県立高校出身者にありがちなガリ勉&コンプレックス型 の子でした。
で、この手の子にありがちな、 自意識過剰&ストーカー気質というかなりアレな感じ。

いっちゃ悪いんだけど この手合いは教養も殆どない。
一次文献を読まずに二次文献や入門書で済ませて古典を読んだ気になるようなタイプの筋の悪さ (まさに中川君がそうだったわけだけど)
で、地方の子は親の監視から逃れられたという気分がそうさせるのか(まあ年頃も年頃だしね) 性欲むきだしで中川君は学割○○○へと通いつめてましたね(渋谷には駒場に通う東大生狙いのそういうところがいまでもあるんだよ)

で、結局のところ成績悪いから学士助手には残れないし、院試すら落ちるしで(語学が苦手だったからね)、
二流商社マンになって不適応を起こしたっていうところまでは知ってる。 絵に描いたような東大法学部落ちこぼれコース です。

で、今になってから、あの時に自分よりも優秀だった奴を見返したいとか思ってるわけでしょうね。
まあ上のような経歴からずっと政治には興味があったわけだけど、ついに政党作っちゃったぜ、というわけです。

脳内では大勝利図が描かれていて、与党の黒幕である私ってば偉い凄いということになるわけ(私がなれなかった政治学者よりも政治家が偉くてそれを支配している私の方が更にずっと偉いということね)。
中川君の実物知ってれば政党旗揚げに関する彼の動機とか手に取るようにわかるわけ。

彼のコンプレックス解消に付き合わされる人たちはたまらんだろうな、と思います。
というか、しょぼくれておどおどした実物を知ってるとなんで彼を教祖にした宗教が成立しうるのかもさっぱり理解できないんですけどね。

  • 6月25日、GLA教祖の高橋信次が死去
高橋信次先生がある時、関西から若者が出てくると言われました。わたしとS氏が呼ばれたとき、すでにその話は伺っていましたので、すぐにピンときました。わたしとS氏が伺ったときはもっと詳しく、関西方面というのは四国出身で、その方の父親はSという宗教団体に入っていて、そこの講師である…、その若者とあなたたちは一緒にやるようになるだろう…と言われました。・・・・しかしその後(2~3年後?)、事務所が八起ビルの地下に移って間もない頃、「見ていなさい、その人間は真っ赤な偽物である…。金襴緞子(きんらんどんす)の格好をして皆の前に現れるよ。菩薩だ、如来だといわれるような方は決してそんなこけおどしの格好などはしないよ…」と言われました。(高橋信次先生の予言(?)とオバマ大統領の誕生・・・・人類が背負っている宗教のカルマ ① - 人と自然と宇宙の調和

1981年

  • 東京大学を卒業し、総合商社・トーメンに入社
昭和55年、隆は国家公務員試験と司法試験を受けたが、いずれも失敗。翌年、東大を留年して再チャレンジしたものの、やはり不合格に終わった。エリートコースへの道をことごとく閉ざされた隆は、結局、昭和56年、総合商社・トーメンに就職する道を選びとる。同年の東大法学部卒業生によれば、東大生にとってトーメンは三流商社でしかなく、もし望んで就職したとすれば、きわめて異例のことという」(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)

  • 3月23日、 大悟 人類救済の大いなる使命を持つエル・カンターレであることを妄想
「・・・・・内から何とも言えない暖かい感じが込みあげてきて、何かを何者かが自分に伝えようとしている感覚に打たれたのです。・・・・・この時に私の直観どおり、私の手が他人のように動きはじめました。そしてカードのなかに『イイシラセ イイシラセ』とカタカナでいくつかのことを書いていったのです」(「平凡からの出発」

三月二十三日、日曜日 だったと思います。突然、だれかが自分に話しかけようとしているという気持ちに打たれ、いそいで、カードと鉛筆を用意しました。鉛筆をもつ私の手が、まるで生きもののように動きはじめ、『イイシラセ、イイシラセ』と、カードに何枚も書きはじめたのです」(「太陽の法」土屋書店版
1992年『大川隆法の霊言 1992.1.10第一刷 1992.2.20第二刷』
「三月二十三日は日曜日ではないのだ!一九八一年の三月二十三日は日曜日ではなく、月曜日なのだよ(電子手帳のキーを叩いて見せる)・・・・・月曜日と火曜日を間違えるなら、まだわかるけど、平日と日曜日の違いは記憶としてははっきりしているはず。それにすべての出発点になるような重要な日のことだ。鮮烈にその日のできごとはあなたの心に焼きついているはず。・・・・・この間違いが何を意味するか。 要するに「イイシラセ」など実はなかったのだ
「では、なぜ三月二十三日(日曜日)という日を霊界通信の出発点としたか。そこにはなんらかの真実が含まれているはずだ。推理してみるに、大川が三月二十三日を日曜日と錯覚したのは、『太陽の法』を執筆していた一九八六年のことではないか。三月二十三日まで書き進んで、ふと八六年のカレンダーを見たら、三月二十三日は日曜日になっていた。それでつい日曜日としてしまったのではないか」(米本和広「大川隆法の霊言」

だが、トーメン時代、そうした『神がかり」的な姿を目撃した者はほとんどいない。かつての同僚たちの間に、「本を読むのがモーレツに速かった。赤ペンで線を引いていくという読み方で、一日に四冊読むこともあるといっていたし、給料の半分は本代でとぶ、ともいっていた」
「仕事熱心で、三菱商事を必ず抜く、というのが口ぐせだった」という声はあっても、宗教的片鱗を見たという証言はなかった。ただ、やはり東大からトーメンに入社した大川の後輩は、上司からこんな話を聞いたことはあるという。「あるとき大川さんが、同僚に向かって『おまえの背中には狐が憑いている!』といってお祓いを始めたことがあるそうで、それ以来、彼のことを誰も相手にしなくなったとのことでした」(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)

1984年

  • 忠義、徳島県畜産会を退職。
「霊の話を聞いたのは畜産会を辞める少し前のことです。息子さんが会社の休みに帰られたとき、テープにとったのを聞かせてくれたことがありました。日蓮だったか孔子だったか、はっきりとは覚えていませんが、声色が全然違っていて、何かついているっていう感じでした。忠義さんがいろいろと尋ねる形式で話をしていました。『そこいらにいる予言者よりも高い霊感がある』と言っていました」(畜産会での同僚の証言・有田芳生『幸福の科学を科学する』

1985年

  • 忠義、心霊研究家の近藤一雄に「霊言」を吹き込んだテープを送付。
差出人は善川三朗で、私の息子にはたいへんな霊能力がある、ついてはその問答を録音したテープを送るので聞いてほしいとの内容だった。送られてきた2本の120分テープを聞いて、近藤はまるで話にならないと思った。だがそのことには直接ふれず、善川には、「息子さんはまだお若い。もう少し修行なさってからでも遅くないでしょう」という旨だけを記した手紙を出した。それから数カ月後、そのテープをもとにした『日蓮聖人の霊言』が出版されたことを知った近藤は驚くと同時に、善川の突然の手紙の真意が初めてわかったような気がした。心霊関係の出版社に顔のきく近藤に口をきいてもらいたかったのではないかと感じたのである。(佐野眞一「『幸福の科学』主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」・月刊Asahi1991年4月号掲載)
  • 8月15日、潮文社より『日蓮聖人の霊言』を出版。著者の名義は善川三朗(=忠義)で、霊媒役が大川隆法(=隆)・審神役が富山誠(=力)。

1986年

  • 隆、元GLA信者でヨガ教室主宰の小笠原久子(=原久子)と知己になる。
中原は、高橋の存命中からのGLA信者だった。幹部のような特別の立場ではないが、一会員としてずいぶん可愛がってもらったらしい。高橋信次という人は、信者と気軽に接することを好んだようだ。このあたりは、一般会員の前にめったに現れず、常に本部の奥にいて神秘のベールにくるまっていたい大川とはずいぶん違った。自分の霊的能力、信仰の深さに対する確信の差だろうと言ったら、主宰先生にはこっぴどく叱られそうである。講演会か何かの後、幹部との面談待ちをしているところへ、思いがけず高橋がひょっこりやってきて、「次の人は誰?」と声をかけた。たまたま″次の人″が自分であったおかげで信次先生の知遇を得た、というようなことを彼女は語っていた。
大川の霊言集を読み、中原はそこに亡き高橋信次の思想と通い合うものを感じたらしい。これは決して不思議ではない。父親の善川三朗が高橋の影響を受けていたし、本人も最初の霊的経験は『心の発見』を読んでいる最中だったと書いている。霊言集の中に、GLAの元信者が、今は亡き教祖と似たものを感じたとしても少しもおかしくない。
亡き高橋の面影を求めて、中原は霊言集の版元である潮文社を訪ねていく。何度目かに訪ねたとき、ちょうど『孔子の霊言』の出版のため大川が上京してきていた。『信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで真に心の師となる人を見つけた』〈幸福の科学〉の発足前後に、中原はよくそう言っていた。(関谷晧元「虚業教団」
  • 4月下旬、隆(=大川隆法)・原久子と自動車販売業を経営していた関谷尚良(=関谷晧元)が、新宿七丁目の割烹料理店「作古」で会う。
青年は肉付きのいい体に背広を着て、座敷の上座に座っていた。彼の名は中川隆。後の〈幸福の科学〉主宰、大川隆法である。当時は、総合商社トーメンの東京本社国際金融部に勤めるサラリーマンだった。東大卒、大手商社社員という経歴はエリートと呼べるだろう。その一方では、善川三朗編の『日蓮聖人の霊言』『空海の霊言』に登場する″霊能力者″でもある。しかし、その名前はまだ世間にほとんど知られていなかった。
エリート・ビジネスマンと霊能力。この取り合わせは、今までの宗教にない、新しい何かを感じさせた。私もすでに、この二冊の霊言は読んでいた。むろん、現在のように書店にコーナーがあったり、ベストセラー入りすることもなかった。その頃、私が通っていたヨガ教室の先生に勧められ、何気なく手にしたのである。
じつに奇妙な本だった。日蓮や空海の霊が、大川隆法なる人物の口を借り、宗教の本質や天上界の様子を語って聞かせる。一種の霊界通信である。その内容は、現世的なご利益を求める従来の宗教とは明らかに違っていた。事業がある程度成功し、お金には不自由ない生活の中で、当時の私は何か満たされないものを感じていたのだと思う。この本は、そんな私の心に強く訴えてきた。
やがて、神理探究の学習団体をつくろうという方向へ話題は進んでいった。「大川先生には500人もの高級霊が降りてくるんですよ」と中原は言った。「世の中の宗教団体は、そのうちの一人を神として拝んでいるんです。どれもこれも、ご利益をもらえると説く宗教ばっかり。私たちは新しい時代へ向けて、本当の神のみこころを学習する集団をつくりたいんです。是非、つくっていきましょうよ!」
座敷にいたのは二時間ほどだったと思う。私が支払いを済ませ店を出ると、四月下旬というのに夜気は思いのはか冷たかった。しかし、そんなことなど気にならないほど私は高揚していた。神のみこころを学習する団体!この言葉を心の中で何度も繰り返しつぶやいた。大川隆法、30歳。中原幸枝、年齢不詳。私が51歳。三人ともまだ若かった。この夜から、何かが動きだしたのである。(関谷晧元「虚業教団」
  • 6月1日、大賀昭司が有限会社倉敷きのしんを設立(大黒天物産の前身)。
  • 6月、高級霊界からの「いまこそ立つべき時だ」との妄想により、トーメン退職を決意する。
大川の本を読み返してみると、八六年六月に諸霊から「会社を辞めよ」と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。四月下旬の『作古』での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」彼女の声は弾んでいた。「大川先生の案で、〈幸福の科学〉とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう? 」
コウフクノカガクという言葉に少し戸惑ったが、即座にOKした。幸福の科学、なかなかいいじゃないか。宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。「今度、入会申込書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は18番ですよ」「エッ、18番? もう、そんなに大勢入ったのですか」正直に言うと、たった一目で10人も20人も同志が集まるとは思いもしなかった。しかし考えてみれば不思議ではないのだ。中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たちが大勢いたのである。ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち100人にも膨れあがった。
今あらためて〈幸福の科学〉の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求めるまっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。彼女の純粋で強烈な求道心。良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。ただ中原は、「大川先生、大川先生」と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。『中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう』初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。ここに陥穽があった。(関谷晧元「虚業教団」
  • 7月15日、トーメン退職。これより狂団「幸福の科学」の具体的設立計画に着手。


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