ホメオパシー叩き陰謀論


まえがき
教育に奉仕する者として誰よりも恐るべき事態が起こってしまったと思っている。これからの令和の時代の日本を担う子どもたちのために何としても残さなければならない言論の自由。今それが破壊されつつある。LGBTと自らを称するものたちによって言論が破壊されつつある。世に何も産み出すことのない者が国民の信任を得て議員となった一人の女性の人生を破滅させた。1982年以来日本のジャーナリズムの一翼を担い続けてきた一つの雑誌に終焉をもたらした。このままではきっと将来より沢山の人の権利や自由が失われてゆくだろう。
もっと正しく言えば、現に今この瞬間もどこかで誰かの幸せが奪われている。
きっと手に取られた方は「LGBTは生産性がない」のワードでテレビやインターネットを賑わわせた一連の騒動をご存知だろう。もはや今更取り上げる話題でもないと考えている方もいるだろうが、むしろ一年を過ぎた今だからこそ、日本を脅かすこの「LGBT問題」に光を当てなければならないという使命が我々にはあると感じている。既に今この世の中に巣食う欺瞞に気づいているが言葉狩りの危険から声すら上げられずにいる同志たちに立ち向かうための力を与えられることを祈っている。
だがそれだけではない。この本にはもう一つの、さらに大きな役目がある。これは、一連の事件をLGBTの差別をする側が悪いとの主張を持ちながらこの本をご覧になっている方のためだ。新聞、テレビ、ネットなどの多くの情報媒体では、見せかけ・誇張・被害妄想を大真面目に取り上げこの様な主張に誘導してしまっている。だがこのようなものに惑わされるものがいる限りこれからの日本で起こる災いを防ぐことはできない。きっと皆が移見を取り払って言論の自由を守るという意志を堅く持っていただけるようになると信じている。

1章 産まず奪うだけのものたち
なぜLGBTという存在は非難されているのか。いろいろと論ずることはできるのだがまずはその中でも最も根本的なものを説明しなければなるまい。それは、何も産み出さないからだ。おっと「何も産み出さない」などと言ってしまうとかの女性議員のように根拠立てて説明してもまともに相手にされず潰されてしまうものだがこの本もまだ始まったばかりだ、このまま続けさせてもらおうか。われわれの世界では人々は誰もが誰かを支え誰かに支えられて生きている。
相利共生の世界である。皆が生きてゆくためには当然生きてゆくためのものを皆で産み出す必要がある。
農家の人がいるから食べ物を食べることができるし、工場でものを作る人がいる人がいるから機械や道具が使える。男は会社で汗水垂らして働き、女は家に居て家事をするものだ。そのなかでも母が子どもを産み父が教え育むこと、次の世代へバトンをつなぐことはもっとも尊いことである。だから私は子どもを教え育むという教育の道を志したのである。1981年に進学塾俊英館を設立する以前から三田国際学園の学園長を務める現在までその思いはずっと変わっていない。話を本題に戻すとこのことは人間に限らずともすべての生き物、世界のすべてについて言えることである。もし摂理に反して動物たちが繁殖をやめてしまったらどうなるだろうか?子を産む義務を持つ女と働き家を守る義務を持つ男の、そのどちらでもない存在に世界が満たされてしまったら一体どうなるだろうか?子を産み出すこともなく労働で富を産み出すこともないのだからやがて・・・などと一々論を回す必要もなく滅亡という答えに行き着くはずだ。自民党の平沢勝栄議員の「LGBTばかりになると国がつぶれる」という発言もまさにこの事実を突いたものなのである。自然の理に反した行動には明日がない。傍から見てもただ自滅へ突き進むだけで滑稽だという感情とともに、あまりに自然からかけ離れた姿が海外の映画などで登場するエイリアンのようなものと重なって、奇怪さや気味悪さといった感情が湧き上がってくる。つまりは大自然の営為の中での義務を放棄しているという罪を咎められ、あまりの不自然さから排斥されているというわけなのだ。
ここでひとつ私の教育者としての経験談をお伝えしたい。私が学園長を務めている三田国際学園はかつて戸板学園という名称の女子校であったのだが、私が理事として就任して数か月後に事件があった。私が執務中の学園の理事の部屋に女子生徒が涙を流しながらいきなり駆け込んできたのだ。突然の事態に驚きながらも生徒からいきさつを聞き出すと声を上ずらせながらもあらましを話してくれた。女子生徒曰く、「特別仲良くしていたわけでもないクラスメイトから何の脈絡もなく呼び出され不思議に思いながらもついていった。
人気のない場所に着くと急に改まった表情となりこう言われた。私は物心付いたころから男の子よりも女の子の方が好きだった。女の子との出会いを求めて女子校のこの学校に入学してきた。
1年生の頃から気になっていたがこの前一緒に話して○○ちゃんのことが本当に好きになった。
私も一応女の子ということなんだけど付き合ってほしい。」要するにこの女子生徒は別の女子生徒から告白されたということだ。理解も追いつかないうちにまくし立てられて告白を断り逃げ出そうしたところ、懇願する相手の女子生徒から腕に触れられ言いようのない恐怖を感じたこと、女子同士での告白や恋愛は前から噂を聞いていたようにこの学校ではありふれていて担任の教諭など女性ではきっと相手にしてもらえないことなどを語ってくれた。同性から愛の告白を受ける異常な体験に動揺するのは当然のことだ。実際に告白されてしまった女子生徒が感じた恐ろしさはとても計り知れない。私は恐怖を感じ逃げ出して身を守ったあなたの行動はすべて正しかったと伝えて、あなたのような犠牲者を出さないような学校に生まれ変わらせると約束し、一時間ほどの心のケアを行った。もちろん加害生徒に対しても三度呼び出し指導を行った。私は被害生徒との約束を守るために、生徒を同性愛などという誤った道に進まないようにするために、学校の共学化に最優先で取り組んだ。以前勤めていた広尾学園も共学化をしているが、その時とは比べ物にならない緊急事態である。またこの様な事件が起きてしまうのかと焦る気持ちを抑えられなかった。そのために共学化に伴う校舎のリニューアル工事を施工していただいた鹿島建設の方には一刻も早い完成のためたくさんの無理を聞いていただいた。他にもとても名前を挙げきれないほどの多くの方のご協力頂くことができた。この場を借りて再び感謝の意を伝えたい。そうしてついに事件から約2年後の2015年4月、共学校の三田国際学園としてスタートを切ることができたのである。
すでに述べたが人々の共生の輪のなかで与えぬ者は得てはならないはずである。にも関わらず、まず先に挙げた女子児童の件のように存在自体が普通一般の人々の心の安寧を奪うものだということを無視しても、あれら(性別が異常なのだから「彼ら」や「彼女ら」ではないだろう)は被害者特権を振りかざしわれわれの財産を奪おうとしているのである。例えば、東京都渋谷区はLGBT関連予算として1300万円を予算から拠出することに決めた。1300万円もあれば待機児童問題など教育にまつわる問題は大きく改善するだろう。待機児童問題に限らずとも人々の困りごとは無数にありムダ遣いできる税金などないはずだ。しかしあれらがLGBTの権利とやらを声高に主張し渋谷区議会はそれに屈服させられたのである。1980年代から流行した社会運動標榜ゴロを彷彿とさせる。いいや、むしろそのものだ。エセ同和行為で金を稼いでいた暴力団そのものに違いない。渋谷区に次いで大阪市の淀川区も予算を出すようになるなどこの流れは広まりはじめようとしている。今後この手法がブームとなりビジネスとして確立してしまうとでも言うのであろうか。農家の人たちが額に汗して収穫し倉に蓄えた米がコクゾウムシに食いつぶされるように未来ある子どもたちのためにあるべき財産が蝕まれていくことに強い危機感を覚える。
だがしかし、ここで1300万円を掠め取られたなどというのも実はこの問題の序の口に過ぎない。本当の狙いは日本国憲法ですべての国民が保障されているはずの基本的人権、言論の自由なのである。つまり、これはどういうことかを一言で言うと、我々はLGBTを名乗る者の前では自由に発言することも許されなくなるということだ。あれらに対する批判的意見はそれを発した人間ごと社会からパージされる。ジョージ・オーウェルの「1984年」のようなディストピアを描くフィクション作品の題材で済めば面白い。のであるが残念これは現実に起こりうる真に恐るべき事態である。まず、これは説明するまでもないことなのだが、言論の自由では批判をすることも認められる。LGBTであろうがなかろうが誰だって誰かに批判されることがある。もしあらゆる批判を禁じてしまえば世の中に出回るのはバラ色の美辞麗句ばかりとなる。どんな悪を働いても咎められることがなくなるので治安も大きく乱されるだろう。きっと人々は何を信じれば良いか分からなくなってしまうに違いない。そんな中であれらは人々の批判する権利を、言論の自由を劫掠してはばからないのだ。そしてひどい差別を受けた被害者になりきるごっこ遊びをしながら奪い去られて聞こえなくなった批判の声に自尊心を満足させる。新潮45休載の本質というのはとどのつまりこういうことだったのだ。だがいくら被害者のふりをしようがあれらは決して被害者ではない、むしろ加害者と呼ぶのが正しい存在だ。私たちの当然の権利を奪い去っている盗人なのだから。

2章 口やかましい少数のものたち
まず、この章について語る前に民主主義というものを一言説明しておこう。国民が主権を持ち、国民の多数が幸福を享受できるように主権が行使される。当然皆様ご存知だろう。また、日本は民主主義の国である。こちらもご存知だろう。いや別に何の意味のないことを言いたかったのではない。なぜこんなことを言う必要があったのかと言うと、この日本で、民主主義に反して、少数の意見を優先させよというまるで貴族政のような運動が行われているからだ。そしてその「貴族政」を目指すのは、ちょうど私の学園にも時折現れるようなモンスターペアレントや、もちろんLGBTも含めて、少数のくせにうるさく主張をする集団であり、ノイジーマイノリティーと呼ばれている。より多くの人の幸せのために人々が言論で生み出してきた秩序を乱そうとするのだ。
もしかするとこの用語に聞き馴染みのない読者の方がいるやも知れぬ、ノイジーマイノリティーという存在が一般的にどういうものかという解説から始めよう。一言では、自らの利益を最大に優先させるところに特徴が有るといえる。いや、でもこれではあまりに簡単過ぎてごく普通の人々でも自分の利益を最大にしたいと考えることがあるのとどう違うのか分からない。むしろ人間はそうある方が健全に思える。ケーキがあれば独り占めしたくなるものだ。このケーキを前にしてノイジーマイノリティーとそうではないものの差が立ち現れてくる。ここで私は、4人いればケーキは4等分にされることを期待するのだが、わがままなお子様はなんと一人で全部食べてしまう。「おいしそうだったから」という理由にもならない理由を残して。そしてケーキ4人分を平らげてなおもっとケーキを欲しがっている。
おや読者の方々は勝手に食べられてしまった3人のうちの1人というわけでもないし、このままではケーキを欲張っているだけで稚気愛すべしという感想に終わって折角の解説が台無しだ。社会学的なタームに対してケーキも社会学的なものに置き換えてもう一度説明しよう。
「ここで私は、23万人の区民がいれば1300万円の予算は23万人が平等に恩恵にあずかれるよう配分されることを期待するのだが、ノイジーマイノリティーはなんと全部自分たちのものとして支出させてしまう。『必要だったから』という理由にもならない理由を残して。
そして23万人の区民のための1300万円を使い切ってなおさらなる予算計上を要求している。」
ノイジーマイノリティーたちは日本の国政にも悪影響を与えているようだ。以前に中学校・高校教育のシンポジウムが開かれた際、機会があり安倍晋三総理大臣とお食事をさせていただいた時のことをお話ししよう。身に余る光栄で、この時のことは記憶に深く刻み込まれている。有機野菜を使用していることで有名な都内の日本料理店でのことだった。初めは勿論のことと言うべきかシンポジウムの振り返りや学校教育の現場の現状など仕事の話であったが、私にお酒が入ってきたこともあって少しずつあらぬ方向へ話題を広げていってしまう。酒の勢いがあったとはいえこのことは翌日丁重にお詫びし、今でも大変失礼なことをしたと思っているのだが、その時の私は愚痴っぽい性格からか学校での恨みつらみを述べ立てて、畏れ多くもそれを安倍総理大臣に聞いていただくという有様になっていた。
つい最近発達障害児の親が子どもの勉強を見てくれる特別の先生を付けてほしいというが、この様な生徒一人のために対応はできないし親の子育て失敗の結果であるのにしつこく要求してきて姦しくてかなわないと。つい本音が漏れてしまったのだが、安倍総理は大きくに頷いたあとこうおっしゃった。「そういうの、『ノイジーマイノリティー』って言うんですよ、大橋さん。」総理自身も辺野古基地デモ隊や反原発派にはほとほと困っていると先ほどまでおいしそうに天ぷらを召し上がっていた手を止めシンポジウムでの挨拶のとき以上に力を込めて話し始められた。・・・マスメディアも弱者の味方を気取って積極的に取り上げるし、国民も判官びいきで持て囃す。少しでも都合の悪いことでも言おうものなら「差別主義者」のレッテルが貼られて集中砲火ですよ。・・・総理はいつも矢面に立たされて辛いご身分だとお察しする。「でも、その位軽くあしらえないと首相はつとまりませんよ。(笑い)」黙っている、はぐらかす、これが一番の解決法だという。内閣総理大臣としてとても軽率なことなど出来そうもない立場の重圧を思えば、お辛い立場を察しはしてもかけるべき言葉を見つけられなかった私に、ここでの言葉はまさに目から鱗が落ちるものだった。かぼちゃの天ぷらを箸で掴みながら口をポカンと開けっ放しにして、傍からどう見ても情けない姿のまま話に聞き入ってしまっていたほどには衝撃を受けている。言論で世の中のルールを決めて大勢が幸せでいられるようになっている世界で片時でも言論を捨てなければならないというのは癪な話だが考えてみれば納得だ。
おもちゃを買ってとぐずる幼児に言葉での説得が無意味なのと同じである。
愚痴っぽい私はつい幼児のワガママに耐えきれずつまらぬことを言って「差別主義者」になってしまうところだ。相手に罪があるのだから、こちらが理を通せば必ず打ち勝つことができると信じていたからだ。でもこの時は、あまりにも鮮やかな一つの答えに、総理がこれほどの長期間ナンバーワンでいられるのはこういった人間の深さがあるのだと改めて感じてまったく恐れ入るしかなく、この歳で大変な勉強をさせていただいたと思っている。いいや、こんな本を書いている時点で何も学んでいないのかもしれない。そうだ今でも道理があるものこそ認められると信じている。LGBTを名乗る不合理な存在によって危機に晒されている言論の自由を取り戻すために今この書を著しているのだ。黙ってはぐらかしてLGBTからの言論弾圧を避ける処世術というのが目的では決してない。だが、ノイジーマイノリティーというものを考えるときにはいつも思い浮かぶほどに印象的な話だったのでぜひお伝えしたかったという次第である。
では日本の国政をも擾乱するその手口とは一体どのようなものなのだろうか。もっとも基本的な手口を解説しよう。マスコミや政治家といった権威あるものに自らの要求を取り上げてもらうことから始まる。要求の中身としては自治体に権利擁護のため予算を割けというのが一般的だ。合理性のないものだが弱者の味方として恰好をつけたい権威側と少数でも意見を広めたいノイジーマイノリティー側とで利害の一致があり親和性が高く受け入れられやすい。あるいは酷いケースだが政治家らはもともと元から少数者の人権のためなどといってあれらと繋がっており、リベートを受け取っているケースもある。都内でも有数の規模を持つ教育機関の学園長という肩書き上政治家の方と知り合うこともあるのだが、どこの党とは明言しないがそんな活動ばかりに邁進している議員ばかりのところもあるというのが実感だ。政党交付金を受け取っていないから下らない金策に駆けずり回らなければならないのだろう。これは後の話題であるのに少々話が先走ってしまった。結局マスコミや政治家のような情報を発信する存在が偏ってしまっているのだから、正しい情報が世間にもたらされることはなく、民衆を巻き込んで要求が通ってしまうということだ。渋谷区が1300万円をLGBT関連予算として支出したというのも最も典型的な例である。当然の結果として詐欺恐喝まがいのことばかりしているヤクザ者たちは真相を知っている人からは白い目で見られることになるだろう。義憤を感じてバッシングを加える者もきっと現れ始める。それこそが奴らの狙いなのである。差別され自分らの人権が不当に侵害されたと、大げさに、ドラマティックに、大衆へ訴える。たったこれだけだ。ここでもマスコミや政治家が取り上げ、無責任な正義感にあふれた人々が事情も理解できないで批判した者に攻撃が開始される。こういう時には事情を知る者の冷静な判断は無知な大衆の熱狂の前においてけぼりとなっている。いわゆる「炎上」状態だ。直接手を下すこともなく炎上を利用して疎ましい者を排除、社会的な死に至らしめることができてしまう。すると人々はこの様な吊し上げを見ても怒り以上に穏便に済ませたいという気持ちが働くようになる。炎上のターゲットにされたら困るので命令には素直に従うしかない。人質をとったハイジャック犯のための超法規的措置と同じだ。不当な要求でも有形無形の暴力をもって脅せば法律でも社会常識でもルールが捻じ曲げられるようになる。こうして権利財産は好き放題で刃向かうと排除される絶対の貴族が誕生するのである。
それでは問題の最前線となっている世界、特に欧米に目を移してみよう。
ヨーロッパでは社会運動がきわめて活発に行われて、結婚などいくつもの権利が定着してしまっている。加えて信じがたいことに、なんと性交渉をする権利などというのも保障されてしまっている。これは日本でも保障こそはされていないが禁止されていないものだ。同性愛者の性行為などというのは言わずと知れたHIV感染の主要因である。日本においてHIVに感染またはAIDSを発症している人数は統計より男性が2万人で女性が1200人。
そもそも感染の機会は男女とも平等にあるはずであるのに20倍近くも差が出てしまうのは、ひとえに同性愛者がウイルスを媒介しているからだ。性行為の際にもともと性器でないものを使うのであるから足りない快楽を薬物で補い、そのための注射器を使いまわすのも感染リスクの拡大に拍車をかけている。こうしてただ事実を文章にするだけでも吐き気を催してきてしまうほどの同性愛者の現実。このままではAIDSはあっという間に世界を覆ってしまうのではないか。 愚か者が勝手に病気になって勝手に死ぬというのは別に結構なことだが薬物濫用の犯罪者たちにもエイズ治療の医療費が拠出されてしまうのは実に嘆かわしい。国民の健康の増進のためにタバコ税増税などと意味がまったく通らないことよりこのエイズ対策を優先すべきではないか。現実にイスラーム圏内においては宗教上の理由が大きいが同性愛の性行為は法律で厳禁とされている。かなり脱線してしまったが次いでアメリカの話だ。ここでも事情は州によって異なるとはいえほとんどは欧州同様の権利が認められてしまっており、あれらを批判するとポリティカル・コレクトネスという名の言葉狩りに遭うことになる。「マンホール」という言葉も使用を禁じられているほどだ。「manhole」の「man」がいけないらしい。この「man」はポリティカル・コレクトネスのもっとも顕著な例で「fireman」や「businessman」など英語の教科書にも載っている語からとことん排除されてしまっている。
もうこの書でも指摘するのは何度目かもわからないほどだが、気に入らない言葉は一単語すら許さない、徹底的に潰すという傲慢な性状が透けて見えるようだ。
だが所詮は少数派。ポリティカル・コレクトネスへのアメリカ国民の怒りの声が、最も民主主義的な手続きによってドナルド・トランプ大統領を誕生させたことは誰もが知っていることだろう。そして度重なる誹謗中傷やネガティブキャンペーンにも負けず、アメリカ大統領選挙への2015年の出馬表明以来4年以上もの間多くの支持者が存在する。ドイツやフランスでは同姓婚禁止を公約に掲げる政党が、極右やナチズムというレッテルを貼られてもなお票を伸ばしつづけている。大虐殺を行った悪魔としてアドルフ・ヒトラーのどす黒いイメージが日本とは比較にならないほどに今なお残っているEU諸国では、ネオナチと見做されることは大変な不名誉になるにも関わらずである。「差別主義者」のレッテルで攻撃する同性愛者こそが思想で人を差別する「差別主義者」であることを、あれらによる侵蝕の著しい欧州にあっても大多数の人々は見抜いている。気に食わない人間に権利を振りかざして誹謗中傷しようが真に民主主義に適うものは決して揺らがないのだ。

3章 逃げだし群れをつくるものたち
巧妙な大衆への宣伝戦略に乗せられ、社会ではLGBTというものが一種のブームとなってしまっているようだ。マスメディアが挙って取り上げる。
誰も彼もがLGBTを自称する。LGBTのタレント、LGBTの著述家、LGBTの歌手、LGBTの弁護士。とにかくLGBTと名の付くものが近頃急激に数を増すようになった。これはなぜか。日本国民全般の性的指向に突然の大変革があったのか、いや有り得ない。本当にそのようなSFじみた事態になればまさしく「国がつぶれる」こととなってしまう。斯くいうこの書もその一つとなるのだが、一体どうしてLGBTの人間、LGBTの話題が取り沙汰されるようになったのだろうか。
これはなぜ人はLGBTと表明するのかという視点から見ると理由がよく見える。
まず常識的に自分の性的な趣味を公言することなど有り得ないことではないか。それも世間一般からあまりにも外れた病的なものであるならばなおさらだ。
人に聞かれることがあったとしても律儀に教えてやることもないし、そういう質問をすること自体が社会では非常識とみなされている。それをなぜ自らLGBTと貶める必要があるのか。それは、そこに疾病利得があるからだ。辛いものを回避し欲しいものを得られるという利得。時に人は社会の中で挫折し、葛藤し、大きな壁を克服しなければならな初めは越えられないほどの大きな壁に思える。それでも悩み苦しみ抜いた末に、ある日乗り越えられるようになる。
そうしてこの時養った力で、壁の向こうの世界で力を発揮できる人間となる。あるいは、もともと壁というものは、その向こうの世界に挑もうとするものを試す役割を持っているのかもしれない。私の学校でも生徒たちにはこの壁に立ち向かわせる教育をしてきた。今学園長を務める三田国際学園でも、これからの時代に必須となる科学・英語・ITに授業を通して正面から向き合うカリキュラムを進めている。子どもたちが柔軟な発想力で思い思いにこの壁に挑戦する姿を見たときにこそ、教育者としての真の仕事をしているのだと感じるものだ。だがここで、壁を目の前にして、「私は登れない」といって壁を回避してしまったり、他人に肩車をさせて登ってしまうものもいる。当然人は理由なしに義務から逃れることなどできないのだが、LGBTであることはその言い訳の具とされる。LGBTは生きづらいから。LGBTは差別で苦しいから。本当はLGBTでなくとも実際のことなど誰にも分からないのだから、どんな人でも使えるお手軽な言い訳だ。魔法の呪文「LGBT」の大合唱。しかし壁は自分の力で乗り越えるものであり、抜け道を使って通り抜けても何の力も養われない。だから次の壁も乗り越えられない。再び壁の前で言い訳をしてズルをする。本来こんなズルをする人間は社会でやっていけず、批判され自分の落ち度に気が付くはずだ。だがこのLGBTブームの中、批判させることはない。 すでに前章で説明したように、自ら封じ込めてしまうからだ。自分で自分の成長の機会を奪っているとも気づかず。そして批判の代わりに得るのは同情だ。困難から逃げて、それを同情される。一度味わうと抗いがたいその蜜の味を知ってしまったものは、きっと何度でも壁への挑戦から逃避を繰り返してしまう。怠惰な人間の代わりに肩車させられる人の苦労など知ったものではないとばかりに。傍若無人で未熟な人間として、しかもそのことに無自覚で、一生を送ることになるのだろう。結局「利得」とは言っても「疾病利得」とは人間を堕落させるものでしかないのだ。
LGBTという病の拡大とともに立ち現れてきたのは、LGBT支援ブームである。近年の過剰なまでの同性愛保護の言説からもそれはうかがえるだろう。まず支援ブームの先頭にいるのはあれらが自分で立ち上げた団体だ。同類同士が集まって作る組織というものはその成員にとって居心地の良い空間になることは自明であり、例えばとある小説のファンが作ったグループではその小説の面白いポイントを語り合うようになっているだろう。
一方ここで、壁から逃げ出したものたちの集まりは、現実逃避を肯定してはばからない歪んだ世界を生み出してしまう。これからの世の中で生き抜くため力を身につけておかなければならないという現実は温室の中において隠蔽されている。所属するうちに自らの手で自らをスポイルし続けているということが当たり前になり、人格が錬磨されることはなくなってしまうのだ。だが、私が今ここで触れたいのは言っても仕方のない傷の舐め合い団体のことではない。そもそも良くも悪くも同類が同類を支援することには当たり前である。ピーマン生産者がピーマン生産組合を作りピーマンを好き嫌いする子どもたちにも人気の出るピーマン料理のレシピを公開しピーマンの宣伝をしていたとしても不自然ではないのだから。ではこのピーマンレシピを代議員が国会で発表したり、ピーマン農家への補助金拠出を訴えたり、ピーマンの消費税減税政策を打ち出した場合はどうなのか。この裏に何があるのかについては言うも疎かなことだろう。つまりここで指摘しなければならない問題は、社会においてあれらに阿訣追従することを是とする動きが現れ始めていることである。票が欲しい議員、テレビに映りたいタレント、本を売りたい文筆家。移り変わりの激しい業界は常に新しさを衒わなければ生き残れないということなのか、場合によってはLGBTのふりまでする「ビジネスLGBT」とでも言うべきものがテレビなどでも散見されるようになった。「自分は痴漢趣味だ」などとのたまう、痴漢趣味に限らずとも犯罪者予備軍と目される変態性欲者であることを明るみにし、況してやそれをキャラクターとして売り出す有名人は、LGBTの場合を除いて存在しない。こう考えると今がいかに異常な様相を呈しているかがお分かりいただけるだろう。中でも政治家との結びつきはこの異様な社会現象の急激な拡大の引き金を引くことになってしまう。そしてこの性倒錯者の一群が政界との癒着によって恐るべき膨張を遂げるという一連のシナリオは必然のもの、引き金が引かれることを止めることはできないものだったのだ。マイノリティーの支援者として判官贔屓で支持を得やすく批判されにくい状況を作り出せる側、全く論外な要望でも政治のまな板に載せられる側。この癒着に異を唱える人間は「差別」の2文字で口を塞いでしまえばいい。
今まであれらが使ってきた手法が、正道から外れた裏ワザとして政治とあまりに相性が良すぎた。程度の低い議員はすぐにこれに飛びつくだろう。政治家と反社会的な圧力団体とのつながりにおいてお決まりの袖の下も動くようになる。もはやこの段階まで進んでいると「ピーマン業界との利権」が蠢いていることは誰にも否定できない。公園でハトに食パンの切れ端をやり続ければやがてハトの溜まり場となってしまうのと同じでマイノリティーを自称する活動家らがこのような「政治屋」の下に集るようになる。しかし、特にクリーンそうなイメージに見せかけるため政党交付金を受け取らないパフォーマンスをしているせいで金欠に陥っている政党、他にも規模が小さく交付金も少ない政党にとってこの状況はむしろ好都合。このマイノリティービジネスが党公認のものとなってしまっていると言ってよい体たらくだ。その結果が有機野菜料理店での会食のときに安倍総理大臣も頭を抱えていた現在の日本の国会の一部の腐敗した惨状である。救いとなっているのは、この党が支持を得られていない点だ。善良な国民を顧みず利権に溺れているだけの政治屋や党に票を与える人間はいない。
票がないから議員になれない、議員になれないから金もない、金がないからマイノリティービジネスで票を失くすの悪循環。未来永劫利権裏金を孕んだ汚職議員と圧力団体の馴れ合いが大多数に認められることはないのだと安心できる。違う、何を言っているんだ。まったく救いになどなっていない。総理が嘆きの言葉を漏らしていたのは国会議員たるもののレベルの低さだ。もともと民主主義とは最も大衆の立場を代弁している与党と与党から漏れてしまった意見を補う野党の議論があって完全に働くもの。やはりあれらが政治への干渉を止めぬ限り日本の政治の正常化がなされることはないのであった。
本来疾患であるものがブームとなってしまうことによる弊害はあまりに大きい。
これは知り合いの心療内科開業医の先生からうかがったとても興味深い話だ。およそ20年ほど前より始まったことで、そしていま現在にも続いていることである。なんと、うつ病が爆発的に流行しだしたのだ。厚生労働省のデータで、この事実は確認できる。平成11年頃までは約44万人であったうつ病患者数は、3年後には71万人に、そのまた3年後には92万人へと大幅な増加が見られている。2倍以上まで膨れ上がっているのだ。だがすでにお気づきの読者の方もいるだろうが、うつ病は風邪やインフルエンザとは違ってウイルスやら細菌やらが感染を広げる病気ではない。
流行したのは「病気の概念」自体なのだ。ネットでの安易な自己診断や怠けの口実欲しさが病院の受診者数を増やした。そしてこういった人々のために適当にうつ病の診断書を交付し薬を処方して稼ごうとする悪徳な医者も現れた。統計に従うならば少なくとも48万人、ブームの発生前から怠けているものも含めるとより多くの人間が怠惰の正当化のために病気のふりをしていることになる。働けない人間であるとの烙印を押されるに等しいうつ病という診断を自ら求める、ここにもやはり疾病利得があるからだ。もっとはっきりと正確に言えば、働きたくないから「うつ病になる」のだ。今や若い者の間で学校や仕事を一時的に休む口実として「プチうつ」なる言葉が医学的には何の意味もないにも関わらず蔓延るほどである。単に嫌なことがあって落ち込んでいるだけで治療の必要はない。時間が治していくものである。にも関わらず安易にメンタルクリニックなどに通院しうつ病として「治「療」され医療費の7割が我々に負担させられることになる。そしてその医療費をもって我々が購わされるのは他人の堕落なのだ。問題は怠けのためのうつ病ごっこに止まらない。かつてうつ病にはリタリンという薬が使われていた。精神の働きを活発にする働きがあるそうだ。しかしその一方で、危険な副作用として依存性があることがわかっている。つまるところ半ばドラッグのような存在ということだ。あまり処方されることのなかったこの薬も、うつ病の「流行」の中で合法ドラッグとして注目を浴びるようになる。いくつもの病院をはしごしてリタリンを大量に入手する人間も後を立たなかった。インターネットで転売して暴利を上げる闇ビジネスも出現し、このビジネスの裏には当然反社会的集団とそれを買い支える人間の構造が存在しているのである。遂にリタリンは国によって処方禁止という対策が取られることとなった。覚せい剤もマリファナもコカインも違法薬物とされている、当然の措置だ。
アメリカでは現在もスマートドラッグと称して気分を高めたいときや集中したいときに気軽にリタリンなどを服用するのが当たり前とされるほどであるが、禁止しなければ日本もこのような深刻な薬物汚染に飲み込まれていたであろう。実際にその知り合いの先生は、「私はうつなのでリタリン下さい。」とまで言い切るエセ患者までやってくるなど、当時相当苦い経験をされたようだった。「ブームが始まった20年前、クリニックを訪れるのは怠け人間ばかり。『私はうつ病ですよね』などと結論ばかりを欲しがっていた。
この様な病気ではない人間を診ていては沽券に関わるし医師としての技能も身に付かなくなってしまう。
うつ病ではないかとやってくる人間はすべて追い返すことにした。
このニセモノの患者も受け入れることにすればどれほど経営も仕事も楽だろう、でも本当に救いを求める患者を救うことこそ天命だ。」熱弁を振るう開業医の顔は、優れた技術と真っ直ぐな正義感に裏付けられた自信に輝いていた。 LGBTは病気である。ここまでは誰もが理解していることだ。だがこの前提に社会が出した結論は間違っていた。病気ならば支援が必要だ、という大きな間違い。それはLGBTという病理を正確に捉えきれていないからこそ起こる間違いだ。言うなればLGBTというのは「現実逃避依存症」である。現実を否定した先に待っているのは自分の首を絞める結果でしかないという事実。誰もが気づくはずのこの事実に気づくのを不必要な手助けが阻んでしまう。ましてやうつ病の例のように同性愛者のふりをして疾病利得を得ようとしているものもいるというのに、支援とは疾病利得その物だ。お節介を焼いた分だけますます疾病利得に依存させることになる。だからと言ってLGBTがもはや現実を受け入れることを許すはずがない。労せずして甘い蜜を吸うことを覚えてしまうと、それが阻まれるのをどんな苦難を受けてでも食い止めようとする逆転に囚われてしまう。依存というものの恐怖である。LGBT支援ブームに増長し、疾病利得という麻薬の深みにどっぷりはまったなれの果てとして他人の人権を貪り喰らい尽くす怪物と化してしまった。果たして哀れなモンスターが人間としてのあるべき姿に導かれた末の世界とはどのようなものなのであろうか。

終章 LGBTの終焉
権利を棍棒にして世にはばかるLGBTら。逆らえば袋叩きでメッタ打ち。逆らわずとも少しでも反抗的な者を探すための恐ろしい監視が始まっている。われわれは毒始に灼かれるしかないのだろうか。否、ここに盾があるのだ。棍棒に使うことにしか知恵がないあれらにも認められてしまっている「権利」というものも、我々ならば自分自身を守る盾とすることができる。
しかし、まだ、足りない。これでは自分自身を守ることができても社会の皆が何にも脅かされずに過ごすという目標には程遠い消極的な解決策だ。ならばどうするのか。社会のすべてを守るにはどうするのか。それは、城壁で守ることだ。古来より蛮族どもの襲来から人を、国を守ってきたのは強固な城壁であ いくつもの「盾」が集まり協調しあえばすべての人を守ることができる「城壁」にだってなることができる。これ以上のLGBTの跳梁跋扈を許さないという強い意志を持った人々の団結こそがこの事態を解決する唯一の希望なのである。そして、すでに希望への道筋は照らされ始めている。
2章で挙げたトランプ大統領やヨーロッパの「極右」政党、平沢勝栄議員がよい例である。彼らは苛烈な中傷に晒されながらも決してLGBTへの意見を撤回してはいない。なぜそのようなことが可能であるのか。まず一つ、もちろん意志の頑強さがあったからである。実のところ、この一つ目の理由というのは、無秩序を押し付ける人間のいない理想郷においてはこのようなものがなくとも幸せが保障されているのであるから、本当は忘れ去られているべきものとも言える。言い換えると意志が強い人だけに権利が認められるという世の中は未熟であるということだ。しかし今の戦いのなかでこれは本当に重要なものだ。もしかすると、LGBTに徹底抗戦するという意志の強さを今迫られることは、アメリカ独立戦争のように自由が戦いの末勝ち取られてきたという世界史の教科書の中の真理をなぞるものなのかもしれない。逆に現在忘れられがちとなっている二つ目の要因は、言うまでもなく自分の意見を好きに表明すること自体元々、あれらが棍棒代わりに振り回している紛い物などより余程真っ当な「権利」であるというものだ。つまり、何よりも現代のLGBT問題解決のため最も大事なことは、屈することなく言論の自由という名の権利を行使することなのだ。屈しないことで理不尽な要求や言論弾圧は受け付けないという確固たる意志を示すことができる。そうしてわれわれがその意志を積み重ねていくことで社会に正しい秩序が浸透し、民主主義の中で普通の人間が当たり前に権利を守られるというユートピアに辿り着ける。攻撃に耐えきれず新潮45が廃刊を決定したように落ち度があるかのように認めてしまうことは敵をつけあがらせるだけである。実際には新潮45もはじめは戦う姿勢を見せていた。インターネットの匿名の皮を被った無責任で卑怯な吊し上げに対抗して「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という特別企画を誌に堂々と掲載、言論の自由への意志を持った7人もの寄稿者を集めて盤石の態勢かと思われた。だが、ここまでで折れてしまった。それがいけなかったのだ。支援ブームがあったと言えど世の中の大多数の人間はLGBTやその味方などではないのだから、あれらを批判しようとも覆さなければ最後は必ず認められる。絶対に最後まで戦い抜かなければならない。それでも納得できない少数のものは、自分の既得権益を押し通すために我々の権利を侵害するかもしれない。時には他人の所有物である看板に落書きし汚損したように、犯罪になるような妨害行為、テロリズムの被害を受けるかもしれない。生命を脅かすような手段を取るものが現れてもおかしくはない。もしかすると新潮社が屈従してしまったのも、看板への破壊行為という異常事態の中で犯罪予告の類を受けて、何よりも命を優先しなければならなかったための苦渋の決断だったのかもしれない。それでも、誰かの身の危険を招くかも知れなくとも、もう一度言う。絶対に屈してはいけない。
屈しないこと。すなわち拒絶することなのか。迫害することなのか。コーナーに追い込むことなのか。これは社会を絶滅収容所に作り替える試みなのか。いいや、これは決してそうではない。
反対に、LGBTの救済という結果をも齎すのだ。確かにあれらは現在社会に大きな混乱を生み出している。罪なき人々の財産や自由を奪っている。新潮45の編集者や杉田水脈議員を思えば、復讐心にも似た義憤が沸き立ってくるものだ。むしろこの本をここまで読ませておいて徹底的な排除や駆逐にこそ答えを見出すべきという読者の方の怒りがあるやも知れぬ。だが、あえてここで私はそう結論しない。それは、なぜなら、私は教育者だからだ。あれらが傍若無人な振る舞いを続ける理由は、社会における困難を自分の力で乗り越えることから逃避し、それが無責任に支持する存在がいるからである。簡単に言えば子どものまま大人になってしまった状態だ。社会の壁を自分の力で乗り越えることで人間は成長するのであるが、好んで肩車してやる存在や脅されて肩車させられる存在を使って壁をやり過ごし未熟なまま社会に混じってしまっている。そんな中、誰もが決して屈しないこと、誰もが肩車するのを拒否することはどのような意味を持つか。逃れられない状況でありのままの社会と出会う。自分の力で困難を克服する体験をする。いくつもの葛藤を経て大人へと成長する。いずれ病気であることに逃避し子どもの「育つ」という義務を放り出していた過去が過ちであったと気づくだろう。言い訳としての価値しかなかったLGBTという概念は、人の成長に伴って自然消滅していくのだ。ただし子どもの成長スピードは皆バラバラである。
時間はかかるかもしれない。数多いるLGBTの名を借り子どものまま時を止めてしまった人々すべてを救う大事業ともなればなおさらだ。しかし、たとえ何十年とかかろうと私はこの未来に希望と使命感を感じずにはいられない。なぜなら、私は教育者だからだ。

あとがき
昔から人を教えるのが好きだった。1981年に塾を開設する以前から半ば趣味として子ども達に向き合い教壇に立ってきた。そして現在、三田国際学園の学園長として、言わば「教師の教師」の役目で夢を持って教育の世界に入った若い先生達をも教え導く日々を充実したものだと感じている。まさに教育は天職だったのだ。
そんな毎日の中、あるニュースが飛び込んできた。新潮45に寄稿した杉田水脈議員の論文による騒動、「LGBTは生産性がない」というワードが取り沙汰された騒動である。はじめは新潮社も下らない騒ぎに巻き込まれて可哀想だという能天気な意見しか持ち合わせていなかった。コップの中の嵐で終わると考えていたからだ。1章で取り上げた女子生徒の事件も加害者への反省文指導により少なくとも問題が顕在化することはなくなった。だがここから数年の間に何かが大きく変わってしまったようだ。誹謗中傷もそれを基にした報道も日を追うごとに増すばかり。
遂に新潮45は廃刊、寄稿した杉田議員はあたかも犯罪を犯したかのような扱いを受けることとなった。
ここに来てようやく事態の深刻さが明らかになってきた。あろうことか不都合な意見に対し口を塞ごうとするとは。 「言論の自由をねじ伏せてきたのは古来より暴力だったがまさにその例の一つとなっていた。「あなたの意見には賛成できないがそれを言う権利は命をかけて守ろう」という言葉の通り、同意できない意見であろうとそれを認めなければならないはずであるのに。
誰が言論を殺したのか。調べ進めるうちにたどり着いたのは、インターネットでの炎上騒ぎが発端、すなわち若者たちが積極的に言論弾圧側に回っていたという事実であった。私は愕然とした。顔の見えないネット上で何が正しくて何が間違っているかも考えられず、動物的な感情に基づいて罪もない人を晒しあげている。そして我を忘れた大衆の上には、不都合な意見を一つ残らず封殺したいという思惑が、黒衣の引くマリオネットの糸としてちらちらと見え隠れしていた。
この事件を大きくしていたのは若年者だ、私には生徒たちが巻き込まれてしまうのではという恐れが生まれた。もちろんデマを信じ無実の者を陥れるような人間に育てる教育はしていないので安心されたい。三田国際学園ではiPadを使った授業よりインターネットの世界を学び、「発想の自由人たれ」という言葉より本当のことを自分で考える能力を養い、そして社会に羽ばたいている。しかしどうしても不安が拭えなかった。わずか数年でLGBTに追従する意見しか許されないという世間の空気を作り出すほどの勢いの前には、地道な教育など呑まれてしまうのではとも思えた。さらに言えば、それだけでは我が校の子らを守ることはできても他の人を守ることはできない。黒幕たる存在を暴き身を守る術を知らしめなければ次なる犠牲者を生むだけなのだ。
だから私は一冊の本を書いた。私は出版社から紙の本を何度か出しているが、ここではあえて電子書籍というものに初挑戦した。電子書籍で出すことを提案してくれたのは私の旧来の友人だ。勝手の分からぬ私に何と登録に必要な銀行口座の貸与まで受けられた。この度の出版にご協力いただいた方々にはここで深い感謝を示したい。新潮45騒動も電子掲示板が中心、インターネットでの啓蒙が新たな被害者を出さないために必要不可欠だという助言も、電子出版という未知のものへの躊躇いを乗り越えるのに役立った。教育における新世代の情報技術の価値を何度も強調しているようにネットでの情報発信はますます影響力が大きくなっている。電子書籍の影響力と手軽さという特長は、LGBT問題とは何かというテーマを過不足なく総括し広く伝えるのに実に都合が良かった。
先程も言ったように、電子書籍は初の試みである。
このメッセージがどれだけの人に伝わるかは未知数だ。それでもLGBTという民主主義に迫る災厄に警鐘を鳴らし続けなければならない。誰もが言論の自由を享受することができるために。子ども達の未来を守る教育者の一人として。
最終更新:2023年10月11日 12:35