五木寛之

317 名前:地震雷火事名無し(静岡県)[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 07:00:52.90 ID:MsxWLgMn0 [1/2]
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同じ連載インタビューでも、2日前の五木寛之の方が読み応えがあった。
特に敗戦直後にラジオで政府が
「治安は維持される。市民は軽挙妄動をつつしみ、現地にとどまれ」
と呼びかけたというくだり。


8/3 日経朝刊 8・15からの眼差し ―― 震災5カ月
(1)五木寛之氏 山河敗れて国あり 公に不信、亀裂は深刻

 ――3月11日以降の状況をどう感じているか。
(略)
 ものの考え方、感じ方も、3月11日以前と以後とでは、がらっと変わった。
何をするにも必ず一つの色が入り込んできて、その色を通してしか周囲が見え
ない、という実感がある。だから私は、『第二の敗戦』と受け止めています」

 ――では、何が異なるのか。

「66年前の敗戦の時は、杜甫の詩の『国破れて山河あり』という状況だった。
国は敗れたが、日本の里はあった。段々畑も森もあり、川も残っていた。いま
私たちに突きつけられているのは、 『山河破れて国あり』という現実ではないか。
歌にもうたわれたお茶の葉からも放射能が検出されるようになった。何より悲劇
的な問題は、汚染が目に見えないことだ。依然として山は緑で海は青い。見た目
は美しくて平和でも、内部で恐ろしい事態が進行している。平和に草をはんでいる
牛さえも内部汚染が進んでいるかもしれない。かつてこんな時代はなかった」

 ――「国あり」とは。

「『山河破れて国なし』と言う人もいるかもしれない。ただ、原発の再開も、
復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する
不信、国を愛するということに対する危惧の念が深まっている時代はない。戦後
日本人は、昭和天皇の玉音放送のように、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、
焼け跡の中から復興をめざし国民一丸となってやってきた。今、大変な大きな亀裂
が、ぽっかり口を開けている」

318 名前:地震雷火事名無し(静岡県)[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 07:01:14.75 ID:MsxWLgMn0 [2/2]
(続き)

 ――原発事故で安全を強調する政府の発表に、不信を強めた人も多い。

 「それについては驚かなかった。国が公にする情報は、一般人がパニックになる
ことを恐れた上での、一つの政策なんだ、ということを、私は朝鮮半島からの引き
揚げ体験の中で痛感していた。

 敗戦の夏、中学1年生で平壌にいた。当時ラジオは『治安は維持される。市民は
軽挙妄動をつつしみ、現地にとどまれ』と繰り返し放送していた。それが唯一の
公の情報だった。平壌の駅では、家財道具を積んで38度線へと南下する人であふれ
ていたらしい。ところが国策に沿って生きていた私たち家族は、何の疑いもなく
現地にとどまっていた。

 やがてソ連軍が侵攻してくる。自宅は接収される。着のみ着のままで追い出され
る。敗戦ーカ月で母を亡くした。難民倉庫のようなところで、引き揚げを待ったが
再開されない。冬は零下20度を下回る寒さで、毎晩襲ってくるソ連軍の暴行と飢餓
と不安の中で約2年間なすこともなく、日を過ごした。そのときの教訓が大きな
後遺症となって自分の中に残っている」

 ――今、日本人はどういう場所に立たされているのか。

 「私たちは、原発推進、反対を間わず、これから放射能と共存して生きていかざる
を得ない。たとえ全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押しつけるわけ
にはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能がしみた草原に家族で
キャンプをする。その人体への影響の度合いは、専門家によってあまりにも意見の
開きがある。正直、判断がつきません。

 だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的な感覚を信じるしかない。
(略)
第一の敗戦の時はまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切
に生きる。国は私たちを最後まで守ってはくれない」


324 名前:地震雷火事名無し(愛知県)[sage] 投稿日:2011/08/07(日) 08:50:11.42 ID:2NHef7OQP
317
五木寛之は自分の原点だわ。この人の著作がなかったら自分はひょっとしたら
理系馬鹿のエア御用側だったかもしれない。

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最終更新:2012年12月10日 16:36