竹田茂夫

4/7 東京新聞「本音のコラム」

原発、国家、市民

汚染が徐々に広がっていく。遠い国の惨事であったチェルノブイリが身近に迫って来る。
原発廃墟、何十年も続く事後管理、広大な無人ゾーン、内部被曝の懸念、
このような風景に日本人も耐えなければならないのか。

市場原理に任せれば高リスク高コストの原発は安楽死するだろうという議論があるがそれは疑わしい。
危険な巨大システムは国家管理を必要とするからだ。原発事故は私企業の手に余る。
テロの可能性もある。平常時でも国家に情報や権限が集中し市民の監視や参加は制約される。

すでに三十年前に原子力は民主主義への脅威だという議論がドイツで行われた。
実際、欧州や米国など原発がある所では国家の強力な規制や長期計画があり、政治家や官僚が
原発業界に取り込まれている。さらに国家間競争と言う強迫観念が絡む。
原発そのものが国家管理と癒着と利権を呼び込む。国際原子力機関も
原子力村国際版と考えた方がよい。

懸念されるのは、事故処理の過程でチェルノブイリのように不都合な情報が秘匿され
歪曲される可能性である。今からすべての科学的情報の公開を保証すべきだ。
研究者も研究費をどこから得ているか公表すべきだ。原発を考えるときは国家の観点だけではダメだ。
一人ひとりの市民の観点から見て初めて原子力の意味が明らかになる。


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2011年9月22日東京新聞「本音のコラム」

確率論的安全評価

確率論的安全評価は、原発の過酷事故へ至る原因・結果の連鎖の環のひとつひとつの発生頻度(確率)の
積として事故の確率を把握して、これを引き下げることを狙う。
今年の原子力学会では、この手法で津波による炉心損傷のリスク評価をするという。

だが、これには本質的問題が、少なくとも三つある。
第一は事故原因の予見不可能性だ。次の原発事故は地震や津波が引き起こすとは限らない。
たとえば、全国の原発への同時多発テロの可能性は無視できるのか。

第二に原因・結果の環は確率的に独立とは限らない。
つまり、複数の事故原因は連動、共振する可能性がある。報道によれば、原子力安全委員会は
十八年前に全電源喪失の論理的可能性を考慮しつつも、複数の原因のひとつひとつの確率が低いので、
その積は極小で無視できると結論した。

浜岡原発訴訟における悪名高い班目証言(複数の安全装置の同時呼称は無視できる、との班目春樹氏の証言)も
同じ発想だ。だが、今回の地震や津波によって、この確率的独立の想定は誤りであることが残酷な形で示されたのだ。

第三に原発のリスクを事故の確率×損害の大きさで測る場合、損害とは何かが決定的に重要になる。
東電の賠償額は巨額になるが、それとてもわれわれが失ったもの、失うもののごく一部にすぎない。


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最終更新:2012年12月10日 16:58