山田孝男


797 名前:名無しさん@お腹いっぱい。(大阪府)[] 投稿日:2011/05/16(月) 08:37:16.28 ID:u2DyLYpG0 [1/2]
既出かもしれんが、毎日新聞のコラム『風知草』が悪くない。


浜岡原発の全原子炉が止まったが、核燃料の冷却は今後とも続けなければならない。
危険は去っていない。福島は好転するどころか、日々、悪材料が噴き出している。
原発は怖いと思い知った素人の過剰反応とは言わせない。
それでも安心と言いつのる専門家の過信こそ不思議と言わねばならない。

アーカイブにもこの手の議論がけっこうある。
わりときちんとしてると思う。

ただ…。
新聞のコラムの影響力なんて、
ワイドショーにくらべたら鼻クソみたいなもんなんだよな…。


風知草:浜岡原発を止めよ=山田孝男 2011年04月18日

 中部電力の浜岡原子力発電所を止めてもらいたい。安全基準の前提が崩れた以上、予見される危機を着実に制御する日本であるために。急ぎ足ながら三陸と福島を回り、帰京後、政府関係者に取材を試みて、筆者はそう考えるに至った。
 福島に入った私の目を浜岡へ向かわせたのは佐藤栄佐久・前福島県知事(71)だった。
郡山に佐藤を訪ねて「首都圏の繁栄の犠牲になったと思うか」と聞いたとき、前知事はそれには答えず、こう反問した。
 「それよりネ、私どもが心配しているのは浜岡ですから。東海地方も、東京も、まだ地震が来てないでしょ?」
 5期18年(5期目半ばで辞任後、収賄で逮捕・起訴。1、2審とも有罪で上告中)。
国・東京電力との蜜月を経て原発批判に転じた佐藤が、恨み節を語る代わりに首都圏の油断を指摘してみせたのである。
 浜岡原発は静岡県御前崎市にある。その危うさは反原発派の間では常識に属する。
運転中の3基のうち二つは福島と同じ沸騰水型で海岸低地に立つ。それより何より、東海地震の予想震源域の真上にある。
 「原発震災」なる言葉を生み出し、かねて警鐘を鳴らしてきた地震学者の石橋克彦神戸大名誉教授(66)は、
月刊誌の最新号で、浜岡震災の帰結についてこう予測している。
 「最悪の場合、(中略)放射能雲が首都圏に流れ、一千万人以上が避難しなければならない。日本は首都を喪失する」
「在日米軍の横田・横須賀・厚木・座間などの基地も機能を失い、国際的に大きな軍事的不均衡が生じる……」
(「世界」と「中央公論」の各5月号)
 これが反原発派知識人の懸念にとどまらないことを筆者は先週、思い知った。
旧知の政府関係者から「浜岡は止めなくちゃダメだ。新聞で書いてくれませんか」と声をかけられたのである。
原発輸出を含む新成長戦略を打ち出した内閣のブレーンのひとりが、浜岡に限っては反原発派と不安を共有し、
「原発を維持するためにこそ止めるべきなのに、聞く耳をもつ人間が少ない」と慨嘆した。
 福島のあおりで中部電力は浜岡原発の新炉増設の着工延期を発表したが、稼働中の原子炉は止まらない。
代替供給源確保のコストを案じる中電の視野に休止はない。ならば国が、企業の損得や経済の一時的混乱を度外視し、
現実の脅威となった浜岡原発を止めてコントロールしなければならないはずだが、
政府主導の原発安全点検は表層的でおざなりである。
 なるほど民主党政権は無残だが、自民党ならみごと制御できたとも思わない。
空前の大災害であり、しかもなお収束のめどが立っていない。
 向こう1000年、3・11ほどの大地震や津波がこないとは言えないだろう。
列島周辺の地殻変動はますます活発化しているように見える。
そういうなかでGDP(国内総生産)至上主義のエネルギー多消費型経済社会を維持できるかと言えば、まず不可能だろう。
 いま、首相官邸にはあまたの知識人が参集し、「文明が問われている」というようなことが議論されている。
ずいぶんのんきな話だと思う。
 危機は去っていない。福島の制御は当然として、もはやだれが見ても危険な浜岡原発を止めなければならない。
原発社会全体をコントロールするという国家意思を明確にすることが先ではないか。(敬称略)


風知草:「原発への警鐘」再び=山田孝男 2011年04月25日

 先週、浜岡原発を止めてもらいたいと書いたが、止まる気配はない。あらためて警鐘を鳴らさなければならない。そう考えていた折、
30年来、原発への警鐘を打ち鳴らし続けてきた経済評論家、内橋克人(かつと)(78)の話を聞く機会を得た。
 神戸新聞の経済記者からフリーに転じて44年。モノづくりの現場を歩いた豊富な取材経験に基づき、経済技術大国・日本の過信と、
現代資本主義の人間疎外を鋭く問う評論活動に定評がある。
NHKテレビ「クローズアップ現代」で登場回数最多の常連解説者と言ったほうが通りがいいだろうか。
 この人は米スリーマイル島原発事故(79年)後の84年、週刊現代の連載ルポをベースに講談社から
「日本エネルギー戦争の現場」を出版した。どのくらい読まれたか記録がないが、
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(86年)直後に「原発への警鐘」と改題して文庫化。これは5万3000部売れた。
 やがて地球温暖化防止と原発ルネサンスの20年が訪れ、労作は忘れられる。が、3・11を経て先週、一部復刻版
「日本の原発、どこで間違えたのか」(朝日新聞出版)が出た。
福島第1原発ルポに始まり、このままでは亡国に至ると結ぶ原著には予言書の趣がある。
 内橋はこう言っている。原発安全神話には根拠がない。原発推進の是非が国会やメディアを通じ、
文字通り国民的議論に付されたためしがない。あくなき利益追求という経済構造に支配されているのが実態だ。
その危うさを問うべき学者も、メディアも、利益構造の中に埋没している。
その現実が、地震と津波であらわになったというのが内橋の確信である。
 原発は維持拡大か、縮小廃止か。世論は割れている。毎日新聞の調査(18日朝刊)では「原発依存は、やむを得ない」が40%。
「原発は減らすべきだ」が41%で「全廃すべきだ」は13%だった。
「原発は今後どうしたらよいか」と聞いた朝日新聞の調査(同)では、
「増やす」5%、「現状程度」51%、「減らす」30%、「やめる」11%という分布になった。
 日本は二つの領域に分断された。引き続き原発依存型の経済成長と繁栄を求める人々の日本と、
今度という今度はそこから脱却しなければならないと考える人々の日本に。
 この亀裂を埋め、まとめるのは政府の役割のはずだが、国策の根幹に斬り込む議論を寡聞にして知らない。
福島の制御と三陸の復興に忙殺されているのは分かるが、首都圏や東海地方に第2撃の巨大地震が来ないと言えるか。
来てもマグニチュード7程度という中央防災会議の想定内と言えるか。
 内橋は、「原発への警鐘」の終盤で、第二次大戦の敗因を分析した戦争史家の文章から以下を引用している。
 「有利な情報に耳を傾け、不利な情報は無視する(日本政府固有の)悪癖に由来するが、
日本的な意思決定方式の欠陥を暴露したものであろう。会して議せず、議して決せず……。
意思決定が遅く、一度決定すると容易に変更できない。変化の激しい戦争には最悪の方式で、
常に手遅れを繰り返し、ついに命取りになった……」
 日本には現在、54基の原発があり、総電力供給量の3割を賄っている。2030年までに14基増やし、
原発依存率を5割にあげるという政府のエネルギー基本計画は妥当か。大胆な議論に期待する。(敬称略)


風知草:再び「浜岡原発」を問う=山田孝男 2011年05月02日

 4月28日朝、首相と関係閣僚が顔をそろえる「経済情勢に関する検討会合」で、出席者の一人が
「浜岡原発(中部電力)は止めるべきだ」と発言した。電気事業を所管する経済産業相は反論を避けた。その他の出席者も、
不意の問題提起に応答をためらい、沈黙をまもった。
議論は回避されたが、政府要人による浜岡原発停止要求は、この問題に敏感な霞が関と電力業界に強い衝撃を与えた。

 いま、政府は、福島以外の原発の制御は考えていないように見えるが、実情は違う。
楽屋裏では、散発的に次のような会話が交わされている。
 「浜岡はあぶない」「そうは言っても、他の原発と区別して止める(法令上の)根拠がないでしょう」
「予見しうる危険を防ぐのが政治では」「不用意に踏み込めば自治体を刺激し、全原発に波及して収拾がつかなくなりますぞ」−−。
 政府内でも、ついに浜岡原発停止論が広がるか、そうは問屋が卸さぬか、まさしく微妙な段階にさしかかった。

 浜岡原発は静岡県御前崎市にある。何が問題か。まず、東海地震の予想震源域の真上に建っている。
地震学者の石橋克彦神戸大名誉教授(66)に聞けば、揺れを生む断層面が真下の浅い所にあり、地盤が軟弱。
巨大地震がくれば激しい地盤隆起が避けられず、立地条件の悪さという点で突出している。
 一方、政府の地震調査研究推進本部は「今後30年間にマグニチュード(M)8クラスの東海地震が起きる確率は87%」
と予測(08年)、東海を最重点に地震防災を進めてきた。
 それでも浜岡原発は動き、増設され、運転差し止め請求訴訟でも原発行政が勝った。
「M8に見合う耐震安全性は十分」という司法判断だが、3・11並みのM9ならどうか。
 浜岡は、制御設備の「外部電源の信頼性が福島より格段に高い」から、福島と同じにはならないと元科学技術庁原子力局長が
主張している(東京新聞4月29日朝刊)。この人は「潜在的リスクがあるから停止」は短絡という意見である。

 筆者は先週、霞が関の技術系官僚2人(いずれも専門は原子力以外)に取材したが、
うち1人は、こちらが驚くほど強い調子で原子力官僚の経済優先・安全軽視を批判した。
 「彼らは外部電源としか言わないですね。福島も『電源さえつながれば』と言って50日たつけど、何も変わらない。
結局プラント(機械設備)の中しか見ていない。自然によってガードを崩されるという想像力、安全思想が欠けている」

 2人とも要職を占めるベテラン。政権の司令塔不在を嘆いたあたりは予想通りだが、
「浜岡は止めるべきです」と異口同音に語った点が意外だった。
 環太平洋地域では過去50年にM9クラスの巨大地震が5回起き、うち3回は最近7年間に集中している。
浜岡の海岸には高さ10メートルの砂丘があるとか、12メートルの防波壁を新設するとかいうけれども、
福島原発は十数メートルの津波に洗われている。

 折も折、中部電力は、点検休止中の浜岡原発3号機を7月に再開したいと言い出した。
真夏の電力不足による混乱回避へ布石を打ったのだろうが、民間企業に大局判断は無理というなら、政府が出るしかない。
安全を守る国家意思を明確にして政治をリセットするためにも、日本の技術に対する国際的不信をぬぐうためにも、
まず浜岡原発を止めてもらいたい。


風知草:暴走しているのは誰か=山田孝男 2011年05月09日

 なるほど、浜岡原発の全面停止は中部圏の生産や雇用にマイナスの影響を与えるだろう。
脱原発の世論に弾みをつけ、他の原発に波及するに違いない。だが、それはとんでもない暴走だろうか。
「何がなんでも電力消費」の本末転倒こそ暴走というべきではないか。
 いま、福島では、原発周辺の10万人近くが住み慣れた土地を追われ、職を失い、途方に暮れている。
残った人々も放射性物質による空気と水と土壌の汚染におびえ、農作物も魚も肉も売れない。
風評被害は近県どころか全国に及び、しかもなお、原発は制御不能だ。
 なるほど、福島とチェルノブイリは違う。チェルノブイリは核分裂進行中の事故だが、福島は核分裂の停止後だ。
核燃料の余熱の冷却ができないケースである。だが、この余熱がクセものだった。たかが余熱のはずがこの騒ぎだ。
 電気が通い、冷却さえできれば大丈夫と東京電力は言う。福島原発震災の最大の教訓は冷却電源の喪失だというのが、
原子力安全・保安院と東電の一貫した考え方である。
 一方、多くの国民は、無言のうちに別の教訓を学んだ。原発から生まれる放射性廃棄物の害毒と制御の難しさである。
それは、かねて反原発派の常識ではあったが、いまや国民世論に広く深く浸透した。

 いま、各地で、フィンランドの放射性廃棄物・最終埋蔵処分施設「オンカロ」に迫るドキュメンタリー映画
「100,000年後の安全」(09年、原題「into eternity」)をやっている。
宣伝なしの緊急公開だが、配給元の予想を上回る反響で、連日満員の盛況という。
 オンカロは世界で唯一、現実に建設が進む使用済み核燃料の最終処分施設である。
エネルギーをロシアに頼るフィンランドにとって原発は安全保障上の選択であり、廃棄物永久埋蔵の国民合意に達した。
 だが、高レベルの放射性廃棄物が無害になるまでには10万年の歳月を要するという。
かつて、それほどの時間に耐えた建造物はなかった。戦争、内乱はもとより地殻変動や洪水が起きないと誰が言えるか。
 第一、数百年先の文明、言語さえ想像を超えている。埋蔵物の危険を子孫にどう伝えるか。
やはり、無理な計画ではないのか。カメラは執拗(しつよう)にこの主題を掘り下げてゆく。

 日本は使用済み燃料の再利用循環(核燃料サイクル)と、その過程で出る廃棄物の最終処理をめざしているが、道筋はついていない。不確定という点でフィンランドよりはるかに無責任な状況なのに、大量の使用済み燃料を吐き出している。それでいいのだろうか。
 なるほど、首相の発表は唐突だった。「ウケ狙いのパフォーマンス」「奇策で政敵の機先を制した」などの解説は
政局の機微に触れてはいるが、問題の核心とは言えない。

 問題の核心は、何がなんでも電気をつくり、使い続けようという人々と、流れを変えようとする人々の綱引きだ。
全原発の即時停止が非現実的だということは誰も知っている。「危険な原発は他にもあるから浜岡を止めるな」は通らない。
危険なら他の原発も中期的に抑制するのが当たり前だろう。
 これは、福島の、あれだけの惨状を直視して原発依存を見直そうという常識と、
福島を見くびり、過去の惰性に開き直る時代錯誤との戦いである。首相の次の一手に注目する。


風知草:原発に頼らぬ幸福=山田孝男 2011年05月16日 

 浜岡原発停止の電撃発表に怒った日本経団連会長が「首相の思考過程はブラックボックスだ」と毒づいた。
では聞こう。原発推進を探る専門家集団の思考過程は透明と言えるか。
 毎日新聞は「モンゴルに核処分場計画」を特報した(9日朝刊)。米エネルギー省と日本の経済産業省が組み、
モンゴルに使用済み核燃料などの国際的な貯蔵・処分施設をつくるという極秘計画を暴いた。
 この構想は原発ビジネスと経産省が入れ込み、外務省は乗らず、しかも露見した。バレた以上は立ち消えということらしいが、
ああそうですかと聞き流すわけにはいかない。このような専門家の思いつきと、浜岡を止めた首相の思いつきは、
どちらが罪深いだろうか。

 用地提供の見返りとして、モンゴルは原発をつくるはずだった。日米の技術支援で。
このしくみ、過去半世紀の日本国内の原発立地と似ている。
福島県の双葉町が、電源3法交付金と引き換えに原発を引き受けた構図とそっくりである。
 当初こそ双葉町は開発特需で潤った。農林漁業がすたれて建設業が伸びたが、原発始動から38年後の09年、
財政悪化で「早期健全化団体」に指定され、町長は無給。揚げ句に原発震災で土地をまるごと失い、町民は四散、流浪している。

 原発も、使用済み燃料の処分場はなおさら、制御が難しい高レベル放射性廃棄物を抱えている。モンゴルの原発建設予定地は
無人の荒野ではない。数十年後、草原の村に「××、土下座しろ」と悲憤する住民の罵声が響く恐れはないか。
 いかな「原子力村」エリートであろうと、3・11を見てなお、それに想像がおよばないということはありえまい。
 俗に言う原子力村とは、経産省、特殊法人、電力会社、原子炉メーカーなどにいる、
主として東大工学部原子力工学科卒のエリートの総称だ。

 反原発急進派に言わせれば原発利権をむさぼる悪党一味だが、そういう悪口を並べても、原子力エリートはギャフンとは言わない。
自前のエネルギーを確保して国の独立を守り、安定的電力供給で国内総生産(GDP)を押し上げ、
経済大国の発展を支えてきたという強烈な自負があるからである。
 この視点に立てば、「モンゴル核処分場計画」も思いつきではなく、国策の追求ということになる。
が、3・11を経たいま、原発ルネサンス便乗の「経済大国再び」路線の国策は問い直さなければなるまい。
 浜岡原発の全原子炉が止まったが、核燃料の冷却は今後とも続けなければならない。危険は去っていない。
福島は好転するどころか、日々、悪材料が噴き出している。原発は怖いと思い知った素人の過剰反応とは言わせない。
それでも安心と言いつのる専門家の過信こそ不思議と言わねばならない。

 なるほど、経済大国路線の転換は容易ではない。問題が大き過ぎる。なまじの節電や半端な代替エネルギーでは実現できない。
だが、放射性物質による環境汚染を免れるためには、変わるしかない。原発に頼らない幸福を探すしかない。
 「絵空事」と原子力エリートは笑うだろうか。ならば「それでも原発」の説得的な説明を聞こう。
専門家は「脱原発」「反原発」勢力を愚民視する悪癖をあらため、大衆的な議論の場に身をさらすべきだ。
もはや民衆の理解と共感のない国策こそ絵空事である。


風知草:「電力消費増大神話」=山田孝男 2011年05月23日 

 「原発を造ったのはみんなです」。そう訴える小6男児の手紙(本紙19日東京本社夕刊)の書きっぷりに感心した。
 「僕のお父さんは東電(東京電力)の社員です」で始まるその投書は先月、毎日小学生新聞編集部に舞い込んだ。
 「原発を造ったのはもちろん東電ですが、きっかけをつくったのは日本人、いや、世界中の人々です。
その中には、僕もあなたも入っています」
 「発電所を増やさなければならないのは、日本人が夜遅くまでスーパーを開けたり、ゲームをしたり、
無駄に電気を使ったからです」と続く。
 子ども離れした目配りで、エネルギー浪費型文明の構造の根幹に斬り込んで鋭い。

 毎日新聞の世論調査(16日朝刊)によれば、浜岡原発停止を評価する人は66%だが、「浜岡以外は止める必要なし」が54%。
原発の将来については、「減らす」47%、「全廃」12%に対して「依存やむなし」が31%。世論は割れている。
 割れてはいるが、政府・原子力関連業界と、そこから排除された一般大衆の分裂という見方は必ずしも的確でない。
大都市と原発立地自治体の対立という見方も一面的だ。
 原発推進派と反対派の確執は田舎にも都会にもある。同じ1人の人間の心のなかで既に割れている。
放射性物質による環境汚染は困るが、冷暖房やデジタル家電の便利さは手放せないという矛盾である。
 日本のエネルギー政策は、人口は減っていくにせよ、電力消費は増え続けるという前提で議論されてきた。
自然エネルギーでは無理、原発は止められませんという意見が幅を利かせてきたが、この主張の前提はだいぶあやしくなった。
 なにしろ「原発安全神話」が崩れた。
しかも日本列島周辺の地殻変動はますます活発で、原発震災による放射性物質飛散の脅威は「なんとなく怖い」という段階を超えた。
 「電力消費無限増大神話」もあやしい。
電気を湯水のように使い続けなければ、われわれは文明以前の暗黒に突き落とされてしまうのか。違うのではないか。
電力中毒の先に潜む原発震災が住民から文明を奪い、脅威はさらに拡大しつつあるという実態ではないか。

 われわれの内なる矛盾を整理するためには、福島の同胞が何を失い、何を取り戻そうとしているかを見ればよい。
それは土地であり、家族と先祖のつながりの記憶である。
 原発20キロ圏内ゆえに故郷を追われ、先日、一時帰宅を許された川内村の人々が避難先へ持ち帰ったものは、
母親の位牌(いはい)、アルバム、ヒツジの品評会の賞状とトロフィーなどだった(本紙11日東京本社朝刊)。
 この村には国指定天然記念物モリアオガエルの繁殖地として知られる平伏(へぶす)沼があり、
カエルの詩人として親しまれる草野心平の歌碑がある。
 「うまわるや森の蛙は阿武隈(あぶくま)の平伏の沼べ水楢(みずなら)のかげ」
 うまわるは「蕃殖る」で、繁殖すること。詩人は隣村(現在は、いわき市)の生まれ。
沼べの緑は原発の大熊町、双葉町へつながっている。
 繁栄とは何か。発展とは、幸福とは何か−−。
 菅直人首相は今週後半、フランス北西部の保養地ドービルへ飛び、主要国首脳会議(サミット)に出席する。
最大のポイントは、原発震災を踏まえ、原発の今後をどう語るかだ。歴史的発信に期待する。


風知草:安らぎを取り戻す=山田孝男 2011年05月30日

 与党も、野党も、官庁も、企業も、労組も、マスコミも、原発に揺れている。
 きのうまで左翼の専売特許だった「脱原発」が、いまや自民党、公明党、経済産業省、経済界、保守論壇の一部からも噴き出した。
「原発ルネサンス」を夢見た推進体制の亀裂は、菅直人首相の進退をめぐる民主党内の亀裂より深く、重要な変化であると私は思う。
 福島原発事故に対する東京電力の賠償を免責するかしないかをめぐり、政府部内は割れている。
電気代値上げで国民に負担を求めるかどうか。金融機関に東電向け債権の放棄を求めるかどうか。
これらはすべて、「原発依存型経済は今後とも成り立つか」という同じ問題のさまざまな側面である。
 米クリントン政権の国防副長官だったハムレという人が、東電に無限責任を負わせれば日本の原子力産業全体が倒れてしまうから、
アメリカのプライス・アンダーソン法を参考に免責したらどうだと言っている(日経新聞12日朝刊)。
 プライス・アンダーソン法は原子力事故の事業者責任を限定し、賠償額の大半は国が払うと請け合う法律だ。1957年にできた。
これで原発ビジネスが飛躍的に伸びた。
 これに触発されて日本も原子力損害賠償法をつくった(61年公布)が、
大蔵省(いまの財務省)の猛烈な抵抗で国の負担は明記されなかった。
従来は大事故がなかったからそれでも間に合ったが、これからは米国流しかありませんよ、というのがハムレ提案である。
 ハムレ案に共感するかしないかの分かれ道は、「原発の欠陥を人類の英知が克服する」
という物語を信じられるかどうかという点にある。
原発依存の無限成長という未来図をのみ込めるかのみ込めないか、その判断の違いともいえる。
 私は信じないし、のみ込めない。使用済み核燃料の処分技術は未完成にして不安定だ。
英知で克服というが、人類はすでに排出した放射性廃棄物の制御に困りぬいている。
 そこから出る放射線は生物のDNAを傷つけ、子々孫々に至るまで害毒をもたらす。
そういう廃棄物を大量に抱え、天変地異の恐怖にさらされている現状に居直るのか、そこから脱出するのか。
DNAがどうなろうと賠償金はたんまり出ますという繁栄でいいか。そんな日本、そんな世界にしてしまっていいのかという問題だ。
 国の電気事業審議会委員を長く務めた経済学者の伊東光晴京都大名誉教授(83)が、
チェルノブイリ原発事故の直後、月刊誌に寄せた原発批判の文章にこんな一節がある。
 「資本主義は節倹の美徳の上に、その若き時代の理念を作った。それはミレーの『晩鐘』のように、
敬虔(けいけん)な安らぎの心を伝えてくれるものであった。
原子力発電の精神は、敬虔な安らぎとは逆に、(中略)廃棄物その他についての将来的不安定性を不安定技術の中に秘め、
明日よりも今日の1キロ(ワット)の電力を求めているのである……」(「世界」86年7月号)
 画家ミレーの郷里に近いドービルのG8サミット(主要国首脳会議)で、菅直人首相はぎこちなく、原発安全提言は退屈で、
並み居る外国人記者たちは拍子抜けしたらしい。
 首相の進退を争う政局が鳴動しているが、争うべきは原発の是非だ。
推進体制が緩んだ今こそ、安らぎの日本を取り戻す絶好の機会である。


風知草:党より地球の存続を=山田孝男 2011年06月06日

 ペテン師と宇宙人の仲たがいに関心はない。問題は原発だ。エネルギーの選択と未来だ。
日本を、世界を、どこへもっていくのか。守るも攻めるも根本方針がぼやけている。
 被災地から戻った旧知の自衛隊幹部が言った。
 「自然災害は、起きてしまえばそれ以上動きませんが、原発事故は戦争と同じです。
こちらの対応次第で状況がどんどん変わっていく。対応を間違えれば命を取られます」
 NHK・BS放送のドキュメンタリー番組に登場したロシアの科学ジャーナリストが同じことを言っていた。
 「チェルノブイリ事故は20世紀の戦争だ。これまでとは姿を変えた戦争だ。
これによって多くの人々が死に、これからも死に続けるだろう」
 原発事故の奥底は計り知れない。福島の原子炉は今も崩壊し続けている。
命がけの冷却作業と果てしない住民避難が続いている。原子力の平和利用は戦争と紙一重だった。
 「経済大国」幻想も崩壊し続けている。原発による電力の安定供給と一体の「工業製品輸出立国」路線は行き詰まった。
日本は国際繁栄競争から脱落したのか。
政財界と経済論壇の主流はますます「経済大国護持」を唱えてやまないが、別の視点が重要ではないか。
 この落日は、全地球をニューヨークや東京並みの繁栄へ駆り立てる暴走資本主義からの、名誉ある離脱の好機である。
この落日を、果てしない欲望の刺激、競争と対立、環境破壊をもたらすグローバリゼーション(地球規模の経済統合)
の行き過ぎをあらためるきっかけにしなければならない−−。
 問題は、戦争と紙一重の原発に依存した繁栄競争の暴走を食い止めることだ。にもかかわらず、
政界の話題は首相の延命と民主党の分裂回避だった。
「無敵陸海軍」の体面上、だれも停戦を言い出せず、迷走に迷走を重ねた第二次大戦の末期とよく似ていると思う。

 2日、筆者は、国会で内閣不信任案の採決を見る代わりに、渋谷で映画を見た。
「幸せの経済学」(The Economics of Happiness)というドキュメンタリーである。
 スウェーデン生まれの言語学者で環境活動家のヘレナ・ノーバーグ・ホッジ(65)がつくった。
この人は75年からインド最北部でヒマラヤに近いラダックに住み、近代化の進行・暴走と地域再生の日々を観察して
「ラダック/懐かしい未来」(03年山と渓谷社。原題=Ancient Futures)を書いた。
 「懐かしい未来」という邦訳がいい。ラダックの家畜といえばヤクだが、徐々に牛が取って代わった。
ヤクは日に3リットルしか乳を出さないが、ジャージー牛なら30リットル。それがグローバルな近代化の帰結だ。
 人々はわざわざ低地に牛舎を建て、エサをつくり、牛乳を売ってカネを稼ぐ。
高地でヤクを放牧し、燃料、食料、衣料、労働力として家畜を活用する伝統はすたれた。それでラダックは幸福になったか−−。

 この逸話は、漁業の復興再建のため、企業化・近代化を提案した宮城県知事に対し、
県漁協幹部が「会社は経営がダメになったら撤退する」と反発したという報道(朝日新聞5月15日朝刊)と通じ合う。
 首相の退陣がようやく煮詰まって政局は第2幕へ向かう。
民主党ではなく「地球の存続が第一」の権力形成であってもらわなければ困る。(敬称略)


風知草:株価より汚染防止だ=山田孝男 2011年06月20日

 そろそろ原発以外の話題をとり上げたらどうかと心配してくださる向きもあるが、そうもいかない。
福島原発震災は収束どころか、拡大の兆しが見える。この大事と無関係に政局を展望することはできない。
 京大原子炉実験所の小出裕章助教(61)といえば、いま最も注目されている反原発の論客の一人だ。
原発が専門だが、名利を求めず、原発に警鐘を鳴らし続けてきた不屈の研究者として脚光を浴びている。
 その小出が16日、テレビ朝日の番組に登場し、こう発言して反響がひろがった。
 「東京電力の発表を見る限り、福島原発の原子炉は、ドロドロに溶けた核燃料が、
圧力鍋のような容器の底を破ってコンクリートの土台にめり込み、地下へ沈みつつある。
一刻も早く周辺の土中深く壁をめぐらせて地下ダムを築き、放射性物質に汚染された地下水の海洋流出を食い止めねばならない」

 さっそく政府高官に聞いてみると、いかにも地下ダムの建設を準備中だという。
 ところが、さらに取材すると、東電の反対で計画が宙に浮いている実態がわかった。
原発担当の馬淵澄夫首相補佐官は小出助教と同じ危機感を抱き、地下ダム建設の発表を求めたが、東電が抵抗している。
 理由は資金だ。ダム建設に1000億円かかる。国が支払う保証はない。
公表して東電の債務増と受け取られれば株価がまた下がり、株主総会を乗り切れぬというのである。
 筆者の手もとに、東電が政府に示した記者発表の対処方針と応答要領の写しがある。
6月13日付で表題は「『地下バウンダリ』プレスについて」。バウンダリ(boundary)は境界壁、つまり地下ダムだ。
プレスは記者発表をさしている。
 対処方針は5項目。要約すれば
「馬淵補佐官ご指導の下、検討を進めているが、市場から債務超過と評価されたくないので詳細は内密に」だ。

 応答要領の中でも愚答の極みは「なぜ早く着工せぬ」という質問に対するもので、ぬけぬけとこう書いている。
 「地下水の流速は1日5センチメートルから10センチメートルなので、
沿岸に達するまで1年以上の時間的猶予があると考えている」
 記者発表は14日のはずだったが、東電の株主総会(28日)の後へ先送りされた。

 福島原発の崩壊は続き、放射性物質による周辺の環境汚染が不気味に広がっている。
株価の維持と汚染防止のどちらが大切か。その判断もつかない日本政財界の現状である。
 政府当局者の一人がこう言った。
「あの(太平洋)戦争でなぜ、指導部が的確、着実に作戦を遂行できなかったか。いまは分かる気がします」

 誰も信じない、東電の「収束に向けた工程表」という大本営発表が続いている。
 菅直人を東条英機になぞらえる向きがある。万事に細かく部下を怒鳴るからだ。
東条はサイパン島陥落で敗戦濃厚となった1944年7月退陣。後継首相の小磯国昭が8カ月半。
さらに鈴木貫太郎に代わり、原爆を二つ落とされ、天皇の聖断を仰いで戦争は終わった。

 なぜ、早く停戦して戦禍の拡大を防げなかったか。
無理筋の戦局打開案が飛び交い、常識が見失われ、国の意思決定が遅れたからだ。今と似ている。
いま最も大事な課題は放射能汚染阻止だ。空論に惑わされず、核心へ集中するリーダーシップが求められている。(敬称略)


風知草:水に流せ、ではすまぬ=山田孝男 2011年06月27日

 菅直人首相が「脱原発」で衆院解散・総選挙に挑むという怪説がある。話題自体が永田町ボケの極みだと思う。
 もとより、原発の是非を国民に聞いて悪いということはない。
だが、今は原発震災鎮圧と環境汚染防止に全力を傾けなければならない非常時だ。
中長期の政策を悠然と論じ、解散をめぐる駆け引きや選挙対策にうつつをぬかすヒマはない。
 天下太平の政局妄想にとりつかれるのは、事故が曲がりなりにも収束に向かっていると思うからだ。
放射性物質の影響は軽微と見るからだ。だが、収束に向かってなどいない。
この環境汚染が、人間とそのDNAをどのくらい傷つけるか、まだわからない。無害と信ずるに足る確証はどこにもない。

 福島原発でメルトダウン(炉心溶融)が進み、溶け出した核燃料が地下水に迫っている。汚染された地下水の海洋流出を
食い止める地中の防護壁が必要だ。専門家が急を告げ、政府もその気になったが、東京電力が「待ってくれ」と言う。
 この問題は先週20日の当コラムで書いた。すると、その日の原子力安全・保安院の定例記者会見で質問が出て、
西山英彦審議官がこう答えた。
 「根本的な対策を実行してまいりますが、急ぐ必要はないと認識しております」
 株主総会乗り切りのために東電が準備した応答要領に沿っている。なぜか。
原発事故をめぐる東電と政府の責任の線引きがあいまいだからだ。
 空前の原発震災の後始末を民間企業である東電に押しつけているという負い目が、政府側にある。
「株価対策も考えて」と東電に泣かれれば配慮せざるを得ない弱みがある。
 歴史的大事件に直面しているというのに、なぜ、及び腰ともたれ合いの態勢しかとれないのか。
問題が大き過ぎ、その広がりと深刻さをとらえきれないからだと筆者は思う。
 東電は4月、福島原発の施設の亀裂から、6日間に4700テラベクレルの放射性物質を含む520トンの汚染水が
海へ漏れ出したと発表した。これは、これまで史上最悪の海洋放射能汚染とみなされてきた70年代の、
イギリスのセラフィールド核燃料施設による放射性廃液放出の年間総量に匹敵するという。
 しかも、福島で表面化した流出は氷山の一角だ。それ以外に炉心冷却に使った汚染水があふれ、
さらに汚染地下水が押し寄せている。空前の海洋汚染が始まろうとしている。

 考えてみれば、当然ともいえる。福島原発は経済大国・日本の心臓だった。
トラブルを起こした原子炉の総出力は300万キロワットに近く、チェルノブイリ原発の3倍に達する。
 チェルノブイリは核分裂中の爆発で急性放射線障害による死者が多数出た。
旧ソ連末期の退廃を背景にした事故と侮る気分が日本社会にあった。が、人間を徐々にむしばむ毒の潜在量は福島が上ではないか。
 海に流せば毒は薄まると安直に考える向きが多い。それですむなら苦労はない。
専門家は、放射性物質を含む史上空前の汚染水排出が、
水俣病やアスベスト禍のように、数十年後の大事に発展する可能性を指摘している。
 地下防護壁の建設先送りは株主総会シーズンの幕あいのエピソードではない。
表向き「企業の社会的責任」を高唱する東電の本質を問う大事だ。着工へ首相の指導力が求められていることは言うまでもない。


風知草:50年来の無責任=山田孝男 2011年07月04日 

 原発震災の賠償は東京電力の責任か、政府の責任か。「東電に決まっているが、政府としても東電のお手伝いはします」
というのが、今週から国会で審議が始まる原子力損害賠償支援機構法案である。成立の見通しは立っていない。
 この法案の頼りない存在感と前途多難は、原発推進と脱原発の波間をただよう日本の不安を象徴している。
 原発推進か、脱原発か。推進なら、もはや国営しか引き合わないことが明白だが、国の方針がはっきりしない。
法案は、国が電力会社を「援助」するという微妙な言い回しだ。東電を生かさず殺さず、国がカネを出すとも出さぬとも読める、
急場しのぎの玉虫色。それが支援機構法案の特徴だ。

 法案の作成に先立って閣僚間にバトルがあった。与謝野馨経済財政担当相(72)と枝野幸男官房長官(47)である。
 既にある原子力損害賠償法の3条は、電力会社に事故の賠償責任を負わせる一方、「異常に巨大な天災地変」は
例外として免責と定めている。
 「今回は当然、免責だ」と与謝野が言い、枝野が「法改正しない限り、そういう解釈は無理です」と反対した。
 与謝野は日本の原子力政策のパイオニア・中曽根康弘元首相の愛弟子だ。
大学卒業後、中曽根の勧めで創立間もない「日本原子力発電」に入り、保険を担当した。枝野は弁護士。玄人同士のケンカである。
 結局、枝野が押し切った。そうなると、債務超過必至の東電は新たな資金調達ができず、電力の安定供給が揺らぐ。
そこで支援機構法案をひねり出したという流れだ。
 矛を収めた理由を与謝野に聞くと、こう答えた。
 「国は被災者の補償はしないから、東電を免責すると賠償の主体がなくなっちゃう。財務省にそう言われてね」

 バトルの根は深い。調べてみると、次のような経緯が分かった。1958年、原子力の平和利用へアクセルを踏んだ岸内閣は、
高名な民法学者・我妻栄をトップとする専門家チームを設け、原子力災害の損害賠償について助言を求めた。
 先進国事情を調べた専門家チームは「万一の場合は国家補償が必要」と答申したが、
それを踏まえた原子力損害賠償法(61年施行)の立法過程で国家補償は骨抜きにされた。
 それは大蔵省(現財務省)の意向だったと、法案作成にかかわった通商産業省(現経済産業省)の課長が、
法律雑誌「ジュリスト」(61年10月15日号)の座談会で暴露している。
「明治以来、被害者の直接賠償責任を国が負ったことはない」と財政当局が押し切った。
 座談会の中で、裏話を知った司会の我妻が嘆いている。
「事業者も責任がないから国家にも責任がない、そして災害救助でやる、伊勢湾台風と同じに取り扱うという。
非常に残念で、こうなるのだったら、もっと考えておくべきだったという気持ちもするのです……」

 原発震災をめぐる政府・東電の無責任体制のルーツは50年前にあった。当時は原発の構想段階だったが、
いまや原発依存社会だ。それなのに無責任体制は続き、その延長線上に支援機構法案の漂流がある。
 首相の「辞任3条件」は補正予算、特例公債法案、再生可能エネルギー法案の成立だ。支援機構法案は入ってない。
問題意識が感じられない。首相の感覚を私は疑う。(敬称略)


風知草:どうにも止まらない=山田孝男 2011年07月18日 東京朝刊

 先週末、文部科学相が、高速増殖原型炉「もんじゅ」をめぐる自分の発言を伝えた報道に神経をとがらせ、
記者会見をやり直す騒ぎがあった。この逸話は、関係当事者の利害に遠慮し、国政の大局を見失った日本の混迷をよく表している。
 もんじゅは、原発から出る使用済み核燃料を再利用して発電する「夢の原子炉」である。
まだ研究開発段階だから、文科省が所管している。
 15日朝、文科相の定例記者会見で「首相の脱原発発言は、もんじゅに影響するか」という質問が出た。
文科相は「今後の議論で、おのずと結論が出る」と答えた。それが「中止の可能性も」という報道になり、
もんじゅの地元・福井県の知事が「本当か」と聞いてきた。あわてた文科相が再度記者を集め、
「中止とは一言も言ってません」と繰り返した−−。

 この騒ぎで最も印象深いのは、当たり前のことを言い、当たり前の観測が流れたにもかかわらず、
「中止でない」とフォローに汗だくの、文科相の神経質な対応ぶりである。
 もんじゅは見果てぬ夢だ。国の土台をむしばむ虚構と言っていい。
開発史を顧みれば、誰が見たって砂上の楼閣、やめて当たり前の計画である。
にもかかわらず政府は、関係業界、立地自治体、関連予算で生計を立てる人々の利害を優先し、
やめると言えずにいる。

 もんじゅは敦賀(つるが)市にある。
その名は、同じ若狭(わかさ)湾に面した天橋立(あまのはしだて)・智恩寺の本尊、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)に由来する。
高速増殖炉は1967年に起案された。80年代に実用化へ進むはずが、ずるずる延び、今は「2050年」がメドと言っている。
 起動して間もない95年に火災で運転休止。昨年、14年半ぶりに動かしたら、また事故で休止。
お先真っ暗のお荷物に政府は延べ1兆円の税金をつぎ込み、なお毎年二百数十億円ずつ拠出しようとしている。
 もんじゅには、原発から出る危険きわまりない使用済み核燃料の引き受け施設という含みがある。
だが、もんじゅは動かない。原発依存社会は、実現しない計画に「希望」を託して不気味に漂流している。

 ダメとわかりきった作戦で亡国に至った歴史があった。太平洋戦争だ。航空決戦の時代と知りながら、
日本は大艦巨砲主義に固執して負けた。
なぜか。戦後も生き延びた元航空参謀、源田実(89年、84歳で死去)の回想が興味ぶかい。
 「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、
単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるということになるわけですから。
人情に脆(もろ)くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」
(94年プレジデント社「日本海軍の功罪」)

 わかっちゃいるけど、やめられない。もんじゅの背後に原発があり、電力会社がある。重電メーカーが寄り添う。
気前のいい電力会社は銀行の高利安全の融資先。商社が調達した燃料も電力会社なら高値で買ってくれる。
この構造に連なる膨大な人々の利害が経済成長の大艦巨砲主義の基盤である。
 首相の「脱原発」宣言自体を批判するわけにはいかない。だが、戦法と陣立てがない。そもそも閣僚が従わず、官僚が動かない。
官僚批判のアジ演説だけでは、大艦巨砲主義の構造は変えられない。(敬称略)


風知草:みんな直人が悪いのか=山田孝男 2011年07月25日

 四代目・柳亭痴楽(りゅうていちらく)の「綴(つづ)り方狂室」に
「〓郵便ポストが赤いのも、電信柱が高いのも、みんな痴楽が悪いのヨ」という自虐ギャグがあった。
 いまの国会論戦がそれだ。震災も、政争も、円高も、財政赤字も、みんな菅直人が悪いのヨである。
野党も与党も「菅さえやめれば万事解決」の胸算用。菅の反論がまた、伏し目がちで言いわけがましい。

 今は原発推進の国策を問い直す時だ。なのになぜ、大政党は原発リスクを正面から論じないのか。リスクを追及するのはなぜ、
いつも共産党と社民党なのか。これはイデオロギーではなく、科学技術の問題ではないのか。そこを問いたい。
 早い話が「ベトナム原発」問答だ。日本は昨秋、ベトナムから原発を2基受注した。菅のトップセールスだった。
その菅が脱原発へ動いた。
 先週20日の衆院予算委で、自民党が「危ない原発を輸出していいのか」と追及した。菅は経過説明の揚げ句、
「エネルギー政策と成長戦略を含めた中で議論が必要」とかわした。賢問愚答には違いないが、
攻める側も最後まで自分の考えは明かさず、当然の帰結として、論戦そのものが浅くなった。
 「経済技術大国=輸出立国主義」路線と「脱原発」路線の調和は歴史的な課題である。
首相が鮮やかに説明できれば理想的だが、もたついたから無能、不実とも言えない。
 もしも野田佳彦首相や、仙谷由人首相や、谷垣禎一首相であれば、説明しきれるか。そうもいくまい。
首相の顔を代えれば答えが出る問題ではない。「ベトナム原発」問答の背景は大きく、根は深い。
 ベトナムへの原発輸出の是非を問うなら、まず、何が危険かという根源の問題から整理しなければならない。

 原発リスクに関する科学者の見解は割れているが、保険業界の見立ては均質で客観的だと言われている。
元日本興亜損保社長、品川正治(86)=現同社相談役、経済同友会終身幹事=がこう言っている。
 「原子力事業は、損害保険という側面から見ても、通常の経済的営みとは別枠でしか存在しえない」
(「世界」5月号「原子力と損害保険」)
 なぜなら原発災害は、テストできないので発生の確率が読めず、最悪の規模も損害も見当がつかないからだ。
 被害は空間的、社会的のみならず、子孫の遺伝子を傷つけて時間的にも広がる。同じ巨大技術でも、
ジャンボジェットやマンモスタンカーとは全く異質だというのである。
 原発推進派は「安全性を高めればいい」と言うが、そもそも何を基準とし、何をもって安全と見るのか。
福島原発震災で思い知らされた使用済み燃料の処分はどうするか。展望なき核燃料サイクルをどうするか。
「もんじゅ」はどうか。ベトナムとの契約で使用済み燃料の処理をどう決めたのか。

 国会論戦に付すべきことは山ほどあるが、そういう流れになっていない。なぜか。首相はすでに退陣表明したことになっている。
もうちょっとで辞めると思うから、野党は本論より揺さぶりに精を出す。
 菅は粘りが身上だ。粘りながら「道化師」を演じ、国民に考える時間を与えているという
武田徹・恵泉女学園大教授の見立て(本紙21日朝刊)が面白いが、国会は明らかに時間を空費している。
菅より原発リスクを論じてもらいたい。(敬称略)


風知草:経済成長、誰のため?=山田孝男 2011年08月01日 

 「脱原発もいいが、経済成長をどうしてくれる」という声を聞くたびに、思い浮かぶ顔がある。
「経済成長の条件がないのに成長を求めるな」と説いたエコノミスト・下村治(89年、78歳で死去)である。
 その生涯は、沢木耕太郎「危機の宰相」(08年文春文庫)や水木楊(よう)「思い邪(よこしま)なし」(92年講談社)
にくわしい。
 下村は戦後を代表するエコノミストだ。60年代には自民党の高度成長政策を支える最大の理論家だった。
石油ショック(73年)以降は「ゼロ成長」論の旗手。変化を読み、新時代への適応を果敢に論じた。
 原発が次々に止まる現状は石油輸出国機構(OPEC)の生産調整で原油の輸入が止まった70年代に似ている。
 あの時、下村は、成長からゼロ成長へ、アッという間に変身した。「変節」を問われた下村は、「考え方が変わったわけではない。
経済に与えられた条件が変化したのだ」と答えた(下村「ゼロ成長/脱出の条件」76年東洋経済新報社)。

 いまはどうか。政官財の指導的な立場の人々も、主流のエコノミストも、引き続き経済成長を求めてやまない。
原発の危険は思い知ったものの、成長を妨げる根本的な環境変化とまでは考えない。原発リスクと成長をはかりにかけ、
針路を自在に選べると思っている。
 そこがおかしい。私自身、3月11日まで気づかなかったけれども、天変地異が続く今日、原発は急迫の脅威だ。
成長が大事だから危険を低めに見ようというわけにいかない。低レベル放射性物質の影響は軽微と強調する向きがあるが、
使用済み燃料を含む肝心の高レベル核廃棄物処理は展望ゼロだ。
 もし下村が元気だったら、原発リスクを根本的な条件の変化と受け止め、
原発依存の成長論者をたしなめたのではないかと思うゆえんである。

 下村は晩年、「日本は悪くない/悪いのはアメリカだ」(87年ネスコ刊、09年文春文庫)を著し、
アメリカの強欲資本主義と、日本の卑屈な追随を徹底批判した。日米協調優先の論壇主流からは黙殺されたが、
時間の経過とともに再評価され、文庫版が読まれている。
 「物事が発展し、複雑になると、いつの間にか基本的なことを忘れてしまいがちである」と下村は切り出す。
経済活動は何のためにあるか。国民が生きていくためだ。ところが、現実には、国民経済・国民生活よりも
グローバル企業の経営効率が優先されがちだ。

 「現実の人間を見ず、人間のいない経済を想定して、いったい、どういう意味があるのだろうか」。
下村の憂憤は、24年を経てますます新鮮だ。
 マネーゲームが幅を利かせる強欲資本主義は今日、全地球を席巻している。原発は経済成長の強力な基盤だ。
中国は2020年までに100万キロワット換算で70基の原発をつくるという。
猛スピードで突き進む経済発展のほころびの一つが中国高速鉄道の事故に違いない。
 原発停止は江戸時代に戻ることを意味しない。5年前、10年前の電力消費水準に戻ったとしても、日本はつぶれまい。
立ち止まって原発依存を見直し、安全な社会、健全な経済を再建するという意志さえ明確であれば、
「脱原発」でも「減原発」でも同じことだろう。
 集団ヒステリー状態に陥っているのは「脱原発」志向の世論ではない。経済成長に妄執する指導者層である。(敬称略)


風知草:どこに安全があるのか=山田孝男 2011年08月08日 

 「世界の主流は原発推進」という新聞の見出しを見て、「多いことは正しいことか」というソクラテスの疑問を思い出した。
哲人は自答する。「僕は常々、熟考の結果、最善と思われるような主義以外は、内心のどんな声にも従わないことにしている」(岩波文庫「ソクラテスの弁明 クリトン」)
 ちかごろ、激越な首相批判などめずらしくもないが、それにしても日立製作所会長の次の発言には恐れ入った。
 「首相が何を言おうと原子力の海外展開を進めたい」(日経新聞7月23日朝刊)
 軽井沢の経団連フォーラムで「脱原発」首相への不満が爆発したらしい。商売熱心、経済大国を背負う責任感の発露には
違いあるまいが、福島原発事故が映し出した問題の基本が見失われている。原発は安全ではないという基本が。
 安全なら問題はない。「だから安全な原発をつくろう」と主張する人に聞きたい。どうやってつくりますかと。
 防波堤をかさ上げし、高圧電源車を常駐させ、非常用発電機を空冷式にする……。
いずれも政府が検討している新安全基準の一端だが、それで安全と言えますかと問いたい。
 「科学技術を信頼せよ」と主張する人に聞きたい。この期に及んで「核燃料サイクル」(使用済み燃料の再利用循環)の
完成を信じますかと。展望なき核燃料再処理工場や高速増殖炉をどうやって動かすのか。ついに矛盾が露見した今、
現実を見る代わりに、目をつぶって進むのですかと尋ねたい。

 折しも原爆忌から終戦記念日へ向かう今、1945年8月を思わないわけにはいかない。終戦を探る鈴木貫太郎首相に対し、
陸軍武官の一団がクーデターをかまえて抵抗した。
 「神州不滅」「国体護持」を叫んだ当時の軍人と、「何が何でも原発を」と息巻く今日の財界人は似ている。
軍人が固執した国体は天皇と無敵陸海軍だった。今日の国体は経済大国である。経済大国の武装解除などありえぬと財界主流は言う。66年前と違い、ついに終戦には至らないかもしれない。
 いま仮に、原発の安全性には目をつぶり、輸出促進へゴーサインが出たとしよう。
その場合でも使用済み核燃料の最終処分という問題が残る。

 毎日新聞7月31日朝刊にモンゴル核処分場計画の続報が出ていた。日米主導でゴビ砂漠に国際共同処分場をつくる。
計画を本紙がすっぱ抜き(5月9日朝刊)、地元メディアの批判も高じて立ち消えになったかと思ったら、生きていた。
 続報によれば、6月16日、訪米中のモンゴル大統領がオバマ大統領と計画推進で合意。これに先立ち、
米エネルギー省の副長官が、訪米中の細野豪志首相補佐官(当時)に計画推進の意向を伝えたという。
 使用済み燃料は高レベル放射性廃棄物だ。無害になるまで10万年かかる。地中深く埋めて管理しなければならないが、
先進国では住民の反対が強くてつくれない。日本はもちろん、米国も、ラスベガス北西のネバダ州ユッカマウンテンに
つくりかけたが、あきらめた。
 だからモンゴル。見返りは原発だ。このやり方は、札束を積んで農村部に原発を並べた日本の70年代と似ている。
日本国民は3・11で誤りに気がついたが、外国なら問題なしと言えるだろうか。アメリカも一緒、モンゴルも喜んでいる、
ですむか。熟考が問われている。(敬称略)


風知草:かすみ始めた「脱原発」=山田孝男 2011年08月22日 

 「脱原発」がかすみ始めた。菅直人首相の退陣が秒読みに入り、原発の維持・推進に理解を示す後継候補が増殖している。
民主党代表選は、候補者の器量がB級かどうかよりも、この側面が重要だと思う。
 高名な文芸評論家が「疑問だらけの菅降ろし」と題する一文を毎日新聞に寄せ、
脱原発首相に対する批判勢力の言葉の貧しさを酷評した(加藤典洋、11日夕刊東京本社版)。

 それによれば、いま最大の政治課題は原発である。首相は脱原発という新しい価値を明示したが、
反対派は現状維持(原発推進)以外に提案がない。足りぬ電力をどうするかは経済の問題だ。
反対派は真に必要な政治論戦をサボり、首相の政治努力を空洞化しようとしているにすぎない−−という。
 実際、後継候補たちは原発の維持に理解を示している。「原子力技術を蓄積することが現実的」(野田佳彦)、
「世界最高の安全基準を策定する」(馬淵澄夫)、「短絡的な脱原発というイメージの独り歩きは危険」(海江田万里)……。
 脱原発志向の候補もいるにはいるが、菅をしのぐまでの執念は感じられない。
 原発と政治を描いて話題の近未来小説「コラプティオ」(真山仁著、文芸春秋7月新刊)は、震災後の日本で政界再編が起き、
原発推進派の連立政権が生まれるという話だ。このイメージがあながち荒唐無稽(むけい)とも言えない現状なのである。

 菅はどう見ているのか。知人の問いにこう答えた。
 「もう逆戻りできないところまできたとは思うんですよ。ただ、これ(脱原発)は、社会構造全部にかかわる大政策ですからね。
そういう意味では、まだまだこれからですよ」
 政権に未練はないかという質問には、「そんなこと言ったら10年やってなくちゃいけない」。
先に引いた加藤典洋の文章にも目を通しており、「見てくれている人は、見てくれている」と自負を語ったという。
 「ポスト菅」候補の面々も脱原発を否定しているわけではない。脱原発とも原発推進ともつかぬ玉虫色へ逃げ込むことが
選挙対策になっている。代表(首相)の座も票次第。察しはつくが、それで原発推進の官産複合体と相撲が取れるか。

 原発推進派の世界観にしたがえば「世界の主流は原発推進であり、青臭く迷っているのは日本だけ」である。
だが、米露英仏といえども国内で原発不信がくすぶっている。
 なにしろ、世界3位の経済大国で世界最大級の原発(出力でチェルノブイリの3倍)が崩壊したのだ。
世界注視の中、強制退去と自主避難を合わせ、10万人が故郷を追われて流浪している。
「世界の主流」の皆様に気兼ねして小声で将来を語る必要など、どこにもない。
 「脱原発は決まった、後はスケジュールの問題だ」という訳知り顔の解説もひっかかる。
ごもっともだが、そのスケジュールを誰が詰めるのか。刻限が5年と50年では、脱原発と原発推進ほどの違いがある。
 党内最大グループを率いて代表選を左右する小沢一郎元代表の原発観が不明な点も気になる。明確にしてほしい。
 これは「非常識な菅」の代わりに常識家を選ぶ選挙ではない。元代表の操り人形を選ぶ選挙でもない。
原発推進の官産複合体に挑み、改革する意志と実力を備えた指導者を選ぶ。
その国家意思を世界に示す機会にしなければならない。(敬称略)


最終更新:2013年09月03日 14:12