ゼロリスク神話


327 名前:地震雷火事名無し(千葉県)[] 投稿日:2011/08/23(火) 22:43:40.19 ID:H6p+sFON0
シュピーゲル誌の記者は日本人と違ってかなり手厳しいな。
でも、シュピーゲルってドイツの空港のキオスクでは目立つところにあるよね、読んだことないけど。
山下は当然シュピーゲルの意味を知っていると思うけど、そこに自らの姿を見ることはできないだろう。
ドイツでもテレビで日本のアニメを放送しているし、Mangaというコーナーに日本の漫画が平積みにされていた。
街でぶつかった青年には日本語で「ごめんなさい」といわれて驚いたこともある。そんな日本のイメージを壊されたくない。
でも英語版だから、全世界に発信されるということか。

もうひとつ疑問に思うことがある。リスク論に無知すぎるのは自覚しているが、日本人のゼロリスク批判の目的がよく分からない。
リスクは確率的に存在するのだから、用心しろ、あるいは覚悟をしておけというのなら理解できる。
しかし、実際に被害にあった場合にその状況を甘受しろ、加害責任を追及するのは正しくないといわれているように聞こえる。
この理解でいいのか、詳しい人にお聞きしたい。


▼ 335 名前:地震雷火事名無し(関西地方)[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 23:02:36.54 ID:mbh27IKr0
327
ゼロリスク批判は、絶対安全なんてありえないのに反対派のお前らが変なもん
要求するからそう言うしかなくなった、ベントつけられなくなった、…
などなど反対派や周辺住民、理科の出来ないお馬鹿な市民のせいに責任
転化する発言と理解している。

ただ、絶対安全を要求したのは推進の人たちだし、今でも調べもせずに
安全を言っている。リスクは確率的に存在するし、予想外の形で
事故が起きる時もあるから、様々な対策をするのが前提のはずなのに
それらを怠ってきた結果が今

▼ 341 名前:地震雷火事名無し(catv?)[] 投稿日:2011/08/24(水) 00:15:56.80 ID:3XURsZ2M0
335
ゼロリスク神話が専門家達の中にあるんだよ。
「一般人達はリスクが程度問題だとわかっていないからゼロリスクを要求するのだ」という神話を専門家が信じ込んでいる。
しかし一般人の多くが問題視しているのはリスクの定量的推定のベースにある仮説に未知の不備が存在する可能性によるリスク、
つまり可謬性によるリスクや不確実性のリスクであって、またその種のリスクに対する責任体制が不明確なことだ。

わかりやすい記事があるので引用する。


 しかしPABEの調査結果では、人々はゼロリスクなど要求していないのだという。
 いいかえれば政策立案者や専門家の方が、「一般市民はゼロリスクを求めている」という「ゼロリスク神話」に囚われているというわけだ。
 まず第一に、フォーカスグループの参加者たちは、「自分たちの人生がリスクに満ちており、リスク同士、あるいはリスクと便益とのあいだで
 釣り合いをとらねばならないということを完全に分かっていた」し、さらにいえば何事にも「不確実性」があるということ―たとえば科学的な
 リスクの評価結果にも不確実性はあるということ―も彼らにとっては至極当り前のことだったのだという。 そんな彼らが求めていたのは、
 ゼロリスクではなくて、行政や専門家が、「リスクは無い」と言い切ったり、その基盤にある科学的判断の不確実性をちゃんと認めようと
 しない傲慢な態度を改め、意思決定のなかでもっと真剣に不確実性を考慮することだったのである。

 このようなすれ違いは筆者もあちこちで見聞きしているが、一つとても印象に残っているのは、数年前に、東海大地震の震源域の真っ只中に
 ある原子力発電所をかかえ、いわゆる「原発震災」を懸念している静岡県の浜岡の住民グループと、当時の科技庁の原子力安全委員(?)との
 討論会の一場面だ。 さっきも書いたように、95年のもんじゅ事故以来、原子力業界も「原子力にもリスクはある」ということを公言するように
 なってきているわけだが、この討論会でもそうだった。
 科技庁の専門家曰く、「皆さん、どんなものにもリスクはあるんです。それを認めないことには対話は成り立ちません。 」
 傍聴していた筆者は、「何、今更、寝ぼけたこというとんねん? それこそ運動側がずーっと言ってきたことやないかい」と内心ツッコンでいたら、
 案の定住民グループから「それこそわれわれが言い続けてきたことであり、『絶対安全だ』と言いつづけてきたのはあんたらじゃないか」
 というツッコミ。 ものの見事にその専門家は「ボケ役」をやってくれたわけだ。
ttp://stsnj.org/nj/essay2002/hirakawa01.html
ttp://hideyukihirakawa.com/GMO/pabe10myths.html

▼ 475 名前:地震雷火事名無し(神奈川県)[sage] 投稿日:2011/08/25(木) 13:19:20.32 ID:+Rbu2eZv0
335
ゼロリスク信仰批判は、御用学者、エア御用、反原発派の中の要注意人物(武田徹など)が
同じような方向で動いている。
自称リアリストがこの手の主張に騙されやすい。
現実には、政府や専門家が「一般市民はゼロリスクを望んでいるに違いない!」
と信じている現象のことを「ゼロリスク信仰」と呼ぶべきでしょう。

リスクをめぐる専門家たちの"神話"
http://hideyukihirakawa.com/news_remarks/#021015
GMOに対する一般市民の認知に関する10の神話
http://hideyukihirakawa.com/GMO/pabe10myths.html

▼ 345 名前:地震雷火事名無し(中部地方)[] 投稿日:2011/08/24(水) 00:38:39.42 ID:QHPT5ID60
327
少しでもリスクがあるならゼロリスクはないんだから
それに注意するようにというのが普通だよ。

リスク論語って科学通気取ってる連中や学者がおかしのだよ。

▼ 387 名前:地震雷火事名無し(茨城県)[sage] 投稿日:2011/08/24(水) 16:48:34.54 ID:YCbwhP5p0
327
そもそも英語圏で「受身のDanger」を使うべき状況で「自ら選ぶ危険であるRisk」を多用して
危険を選択しなければならない問題であるかのごとく偽装している。
その意味では日本でのリスク=危険は誤訳と言われるが、実は適訳だと思う。

非常用電源の一部が故障だって

米原発 地震で外部電源喪失
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110824/t10015116481000.html
 バージニア州の原子力発電所で外部電源が失われ、非常事態を示す4段階の水準のうち、
 下から2番目に当たる「警戒」が宣言されました。

▼ 439 名前:地震雷火事名無し(京都府)[sage] 投稿日:2011/08/25(木) 03:35:35.85 ID:VdhQCbA80
387
>>327
そもそも英語圏で「受身のDanger」を使うべき状況で「自ら選ぶ危険であるRisk」を多用して
危険を選択しなければならない問題であるかのごとく偽装している。

科学バカなニセ科学批判連中も、ふつうに工学系のリスク論やってる研究者も、
その区別自体を意識してないよ。完全に。
「科学的」には地震という自然現象が起きる確率も「リスク」といわれてしまう。

さらにいえば、「受け身かどうかなんて主観的なこと。非科学的」とすら思ってる奴らも多い。

▼ 460 名前:地震雷火事名無し(茨城県)[sage] 投稿日:2011/08/25(木) 10:19:42.33 ID:CguCPjNu0
439
欧米の学者は意図的に歪めてるけど日本の学者はそれを素直に受け入れちゃってるようだね。
日本でも社会学・経済学系ならリスクの原義の説明はするんだけど、欺瞞性の指摘はない。
イギリスでの「市民のゼロリスク信仰」言説が「日本人のゼロリスク信仰」言説にすりかわってるのも面白い。

475 名前:地震雷火事名無し(神奈川県)[sage] 投稿日:2011/08/25(木) 13:19:20.32 ID:+Rbu2eZv0
335
ゼロリスク信仰批判は、御用学者、エア御用、反原発派の中の要注意人物(武田徹など)が
同じような方向で動いている。
自称リアリストがこの手の主張に騙されやすい。
現実には、政府や専門家が「一般市民はゼロリスクを望んでいるに違いない!」
と信じている現象のことを「ゼロリスク信仰」と呼ぶべきでしょう。

リスクをめぐる専門家たちの"神話"
http://hideyukihirakawa.com/news_remarks/#021015
GMOに対する一般市民の認知に関する10の神話
http://hideyukihirakawa.com/GMO/pabe10myths.html


gnsi_ismr gnsi_ismr
「脱ゼロリスク」を承服しがたいのは、それが責任の免除と連動するから。
そもそも責任の追及はいかにあるべきか。100%の原状回復が合理的でないことは私的紛争を例に取れば明らか。
ポイントは立場を入れ替えたときの納得性。互いに加害主体となりうる状況で合理的な責任追及はいかにあるべきか。
12月31日

この場合大前提として、「立場の入れ替えが可能である」という条件が成立しなければならない。
立場の入れ替え可能性がゼロである状況で脱ゼロリスクを「啓蒙」することは不可能ではないか。
12月31日

今のリスク比較論議は、セクハラをしておいて「減るもんじゃないし」と説教するようなものだよなあ。
本来、肩がぶつかって「たいしたことないしお互い様だから」と許し合うような状況じゃないといけないのだと思う。

@kikumaco リスク比較の話にはいくつかの違う階層、違う問題がある ow.ly/8f2it

この点については全く異論はありませんし、混同するつもりはありません。

GoyoGakusha 御用聞き
@gnsi_ismr このリスク比較論議は、放射能の健康被害のことでしょうか?
だとした場合、肩がぶつかって許し合うというのが、実際の状況に
どうたとえられているのかイメージできません。
よろしかったら具体的な状況を教えてください。

@GoyoGakusha 「リスク比較論議」は今回の放射能の健康被害のことを指していますが、
「肩がぶつかって許し合う」状況は本件においては原則的にありえません。本来あり得な
い状況に適用されるべき議論を適用しているということを言いたかったのです。

「肩がぶつかって許し合う」というのは、そこそこ許容可能な程度のリスクで、自分もリ
スクを与える側になり得るという入れ替え可能性がある場合“に限っては”、それ以上のリ
スク低減を求めないという社会的合意が得られる素地があるだろうという意味です。
RT @GoyoGakusha

@chireng Dodol Garut
すみません。横から。ゼロリスクって何のリスクの事ですか?今回の事故による
追加リスク?それとも放射能全般のリスク?

@chireng 今回の事故による追加リスクですね。自然放射線や医療被曝によるリスクは
常に既に存在しますから。

政治家や東電の幹部がこれ以上頭を下げても放射線量が減るわけではないことは当然誰も
が承知していると思う。しかし、どうもその周辺に(何、とはうまく言えないが)何か省
略されてしまっている手続きがあるように感じるのですよ。

100の言葉や“誠意”の表現より現実の除染と合理的なリスク比較、というのも正しいかも
しれないが、「それだけ」では何か欠けているように思うんですよね。そこがうまく言え
ないのですが。

@kikumaco: 頭はいくらでも下げるべきですよ。
それで放射能がどうこうなるわけじゃなくても

下げるべきだと思います。ただ、頭だけ下げられて「反省している空気」を作られて
除染や被曝回避がうやむやになっては困りますが。

@kikumaco いや、言葉はだいじですよ。
だからって、それを根拠にリスク比較をさせようとしない人たちはダメですけど

そういう意味では、少なくとも言葉のレベルに限っても、当事者が自発的にリスク比較
をしようという状況をまだ作れていないと思うんですよね。 RT

@kikumaco: 福島の人たちに聞いてみたらいいですよ。
本当に自発的にリスク比較する状況じゃないのかどうか

「せざるをえない」という意味では、常に既に行っていると思います。
いつでも誰でも、行動は一度に一種類しか選べないですから。

@kikumaco リスク比較はどのみちするけど、それは自発的ではないというのでは、
なにも言ってない

「自発的」という言葉はパターナリスティックだったかもしれませんが、少なくとも
「もっとマシなリスク比較」ができる状況をつくれないのかと思っています。

原発の放射線リスクは、他の人為的リスクと比較して圧倒的に「お互い様」感が無い。
恐らく、民主的な意思決定プロセスの欠如と関係しているのだろう。

もちろん原発周辺市民は現実問題として自由意思でリスク比較をしている。
しかし明らかに周辺市民に許されている「リスク比較の幅」は狭い。それも押しつけら
れた狭さであり、それに対する当事者の反省も対応も不十分。そういう意味でリスク比
較において十分な自発性が担保されていないと感じる。

従って、現状の比較条件を固定したままリスク比較しろと言っても納得できないだろう。
その条件自体国や東電の努力でもっと変えられるだろう、と思ってしまうに違いない。そ
れをやってないということが(言葉や態度の問題は除いたとしても、行動として)「誠意
がない」ということなのではないだろうか。

だからこそ、自分にできることはささやかなことかもしれないが、せめて「もっとマシな
リスク比較」ができる状況をつくりたい。

ただ、自発性という言葉の使い方には注意しなければならない。ある選択をした人は、
問われれば当然自発的に選択したと言うだろう。自分の行動と整合性をとるために。
かといって「あなたの自発性は自発性ではない」と他者が指摘できるか。可能なのは
あくまで事実としての選択の幅の欠如に関しての議論。

私はこの一連の稚拙な発言を投稿するかどうか迷った。が、結論として、このような
稚拙な発言を繰り返したいと思う。それが結局、今回『科学』に書いた、私たちに
必要な「科学技術をめぐる「話法」」を練り上げていく一歩一歩だと思うから。

hirakawah 平川秀幸
@gnsi_ismr 実際、避難に伴うリスクは、国や東電の賠償や他の社会的支援次第で
軽減可能なことも多いのに、そうなってないわけで、そういう国・東電の不作為と
いう不正義・不誠実によって制限された状態でのリスク比較や選択というのは
不条理ですもんね。

リスク比較の初期値は「変えられる」はずです。

@tacohtk: 一連のツイート興味深く読む。一方でリスク比較の問題だということ
自体が認知されていない状況もまだまだある。

もちろん、リスク比較が合理的な資源配分のための有効な方法だと自体は全く否定しま
せん。

補足すると、追加リスクを文字通りゼロにせよと言っているわけではありません。
それが現実的でないことは皆理解しているでしょう。「ゼロリスク信仰から脱せよ」
と、誰がいかなる努力を前提として言うか、を問うているのです。

@chireng Dodol Garut
このゼロリスク信仰って今迄有りますか?何で今になって脱出しなければならない?
少なくとも選択的に今回の追加リスクのゼロリスクを徹底してもダメ?

自治体や流通業者、あるいは地域共同体が合意の上でそのような方針を採ることは全く
問題無いと思います。



少なくとも手持ちの情報を隠さずオープンにして、今後の除染・避難・福島第一の事故処理・経済復興etcの
意思決定と実施に住民が実効的に参加できる状況を作ることが、謝罪の大前提。
その意味で彼らの謝罪は何一つ完了していない。そこで自発的なリスク比較と言われても。



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最終更新:2012年12月11日 15:57