この命題が真であるためには、少なくとも1~3が真でなければなりません。
1.健常で利手が同じであれば、手の運動性能にそれほど差があるわけでは無い。
2.大多数の人の入力する文章の差は、それほど大きくは無い。
3.思考を文章化し入力する際に快適なリズムに、大きな個人差は無い。

さて、1.2.については程度問題ですから、どう判断するかは人それぞれかと思います。

今回3.について少し考えてみたいと思います。考えてみたいと言いますのは、脳の働きについて解っていることはごく僅かである以上、尤もらしい仮説を提示する以上のことは出来ないからです。

まずヒトの脳には文字中枢というような物は有りません。文字が発明されてからまだ数千年しか経過していませんし、それが一般のものとなってから数百年でしか有りませんので、ヒトはまだ文字に適応するよう進化してはいないのです。

最近の欧米での研究では、実に二割の人に何らかの識字障害があると報告されています。二割という数字は、その人達が異常であるとして片付けるには、いかにも多すぎます。もっと厳しい基準で判定したら、より多くの人に「何らかの識字障害がある」ということになるかも知れません。

残り八割の人は十分な速さで文字を処理できたわけですが、みな同じように文字を処理しているということは何ら保証されていません。少なくとも二割の人は同じように文字を処理してはいないのですから、残り八割の人達も結果的に十分な能力はあるけれども、処理方法は人によりけりであると考えておいたほうが無難ではないでしょうか。

文字処理には音韻的処理と正字法的処理があることが知られています。
キーボード入力の際は、今の私のように慣れていない状態でかな入力していると、音韻的処理することになります。しかし、キーボード入力そのものは必ずしも音韻的である必然性は有りません。例えば漢字直接入力とか省略コード入力はまさに正字法そのものです。

習得の労力はこの際おいて、習熟して入力する際、常に音韻的処理をしている人にとって漢字直接入力は、せっかく音にしたものをまた文字に治すという余分な労を要することになります。一方、正字法的処理をする人にとっては、音に直さなくて良いので、こんな良い事はないと言えるでしょう。

では、かな配列やローマ字配列は音韻的処理を要するかというと、必ずしもそうでは無いと思います。確かに漢字を読みに直して入力してはいますが、慣れ次第で漢字が対応する打鍵に直接変換されるのではないでしょうか。読みが邪魔をして習得が遅いということはありそうですが、原理的に無理なわけでは有りません。

個人的にはローマ字でも仮名でも、入力する時によくある見慣れた文字列、あるいは打ちやすい文字列は別に発音を意識することは有りません。実際に脳のその部分を使っているかどうかは無論解らないわけですが、慣れない配列で打っている今と違うのは確かです。

「指が喋る」というコピーがありました。だから良い配列かというと、そういう人もいるしそうでない人もいるのです。

さて「月見草」がどのような配列かキャッチコピーをつけるなら、「右手で書くような配列です。書き易いです。」ということになるのでしょうか、ぱっとしませんけれども…。
最終更新:2013年01月21日 21:23