フランスと日本の関係

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坂上 紀が訪れたフランスと日本との関係 日本におけるフランス 日本では、フランスはファッションや美術、料理など、文化的に高い評価を受ける国として有名であり、毎年多数の日本人観光客が高級ブランドや美術館巡り、グルメツアーなどを目的にフランスを訪れている。また、音楽、美術、料理を学ぶためにフランスに渡る日本人も多く、在仏日本人は3万5千人に及ぶ[12]。 経済面では、1992年から2000年にかけフランス側が対日輸出促進キャンペーンとして「ル・ジャポン・セ・ポシーブル」を展開したものの、2000年代の現在まで貿易額は漸増傾向を示すに留まり、2004年時点で貿易額は相互に60億ドル台から80億ドル台で推移している[13][14]。日本から見た場合、対仏輸出の構成比は1.5%(各国中15位)であり、一方でフランスからの輸入も1.8%(同13位)と貿易における重要度、依存度は他の先進国や中進国と比較してさほど高くない[15]。これをフランスから見た場合、対日輸出が輸出全体に占める割合は1.6%であり、これはドイツ(14.5%)、スペイン(10.2%)、イタリア(9.2%)、イギリス(8.8%)、ベルギー(7.6%)といったEU諸国、アメリカ合衆国(7.2%)、中華人民共和国(1.7%)に次ぐものとなっている[16]。 しかし、直接投資においては、1999年のルノーによる日産自動車の買収に伴い、日産の最高経営責任者となったカルロス・ゴーンは一般の日本人にも知名度があり、これにプジョーを加えフランス車も、ドイツ車などと並んで日本では人気のある海外車種の一つである。他方、日本側もトヨタ自動車がほぼ同時期に北部ノール県ヴァランシエンヌに工場を建設しているほか、NTNなど自動車部品メーカーの工場進出も行われており、近年では1990年代後半にかけて自動車業界を中心に相互に大きな投資が行われている。 日本陸海軍もフランス軍の影響を受けている。日本陸軍は、初期は鎮台制などのフランス式の兵式を採用し強い影響を受けていたものの、1888年にはプロイセン式に転換した。日本海軍はその初期においてルイ=エミール・ベルタンなどのフランス海軍軍人を顧問として招いたことから、当初から兵式はイギリス式を採用していたが、19世紀が終わる頃まではフランス海軍の影響も大きかった。航空分野においては、1910年(明治43年)に徳川好敏がフランスの飛行機の操縦技術を学び、フランス製のアンリ・ファルマン式複葉機を持ち帰り、同年12月19日に代々木練兵場で初飛行した。徳川好敏は、日本人として日本の空を飛んだ初めてのパイロットである。1918年(大正8年)1月の第一次世界大戦中にフォールフランス陸軍砲兵大佐を団長にした、63名のフランス航空教育団を日本に派遣した。日本での初飛行や航空教育は、陸軍所沢飛行場(現・所沢航空記念公園)で行われた。 1858年10月9日に、フランスから日本に外交使節団長として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の修好通商条約が当時の日本の幕府があった江戸で調印された。 1872年(明治5年)から翌年にかけて、岩倉使節団がフランスを訪問しており、当時のパリの様子が「米欧回覧実記」に詳しく記されている(一部スケッチ入り)[11]。 その後、第一次世界大戦においては連合国として戦い、1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど人権意識が高かった。その後の第二次世界大戦においては、フランスが早期に親独のヴィシー政府となり、フランスがアジアに持っていた植民地である仏領インドシナもヴィシー政権の影響下に置かれた。1940年のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介により東京条約を締結しタイとの戦争を終結させた。また、連合国軍のフランス領侵攻によるマダガスカルの戦いでは日本の救援を受けたことなどから、同じく植民地をアジアに抱えていたことで日本軍との戦闘を行ったイギリスやオランダとは異なり、戦後も日本との敵対感情は殆ど無いままであった。ただし、パリ解放後の大戦末期にインドシナで明号作戦により、仏印軍は日本軍に攻撃され、フランスの植民地政府機構は日本軍の支配下に置かれた。

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