福島菊次郎さんへのインタビュー5

目次


■カメラマンとしての仕事~徳原さん一家について
■奇形胎児がどういった状態じゃたったかの質問と答え
■娘さんとの素晴らしい関係
■娘さんへの嘘偽りの無い教育の一シーン
■「戦争責任展」について
■昭和天皇が、戦争責任を、感じたか
■注釈1~注釈4

――――

福島さんへの質問と、お答えなどを、載せます。
質問は、
質問
として、もろうたお答えを、そん下に書きます。

また、四つほど、質問とは違いますが、
■話題
としても、お話を載せます。

――――

■カメラマンとしての仕事~徳原さん一家について

取材をした、被爆者の徳原さん一家の話をして、聞かせてくださいました。

この話は、福島菊次郎さん著書『ヒロシマの嘘』

の、162ページから186ページの間にも、
とても詳しく書かれてあります。

福島さん「徳さんは、僕の本、『原爆と人間の記録』(※1)
を、持っていたかなぁ~?」

と、つぶやいておられました。

「徳原一家の中では、特に、昨年亡くなられた、●さんと、
仲が良かったんですよ」

と、話をして下さいました。

ともちゃん「自分の祖母は、助産婦として奇形児を多くとりあげました。
しかし、守秘義務から、誰にも明かすことが出来ないまま、
祖母はもう、亡くなりました。
どういった奇形胎児じゃったのでしょうか?」

福島さん「ABCCには、奇形胎児の
数多くのデータが残っています。」

福島さん「ABCCを取材した時の記事は、そのつど雑誌などで発表しています」

と、教えて下さいました。

ありがとうございました!!!!


■娘さんとは、とても心の通じ合う、
■本当に素晴らしい関係であることを、お話くださいました。

心と心とが繫がっていて、お互い、
何でも話し合える、ことを、話をして下さいました。

福島さん「娘が、「カメラマンになりたい」と言い出すのを、
今か今かと、待っていたのですが、

結局、「カメラマンになりたい」とは言わなかったです。」

■娘さんへの嘘偽りの無い教育の一シーン

東京に住んでいた時には、娘は

福島さん「写真の撮影について来たいか?」

と、聞くと、

娘さん「うん、ついて行きたい」

と、言いました。

福島さん「今からお父さんは自然分娩を写しに行くんだけど、ついて来たいか?」

と、聞くと、

娘さん「うん、行きたい」

と、言って、ついて来ました。

福島さん「今から、人工中絶の手術の取材に行くけど、ついて来たいか?」

と、聞くと、

娘さん「うん、行きたいと」

と、言って、ついて来ました。

人工妊娠中絶の手術の取材に、娘は、青い顔して、見ていました。

取材から帰った後、

娘さん「お父さん!自分は、

結婚を前提にしたお付き合いじゃないと、交渉はしない」

と、言いました。

おそらく、これほどまでに、真に迫った性教育を施したのは、
自分くらいではないかと思います。

■「戦争責任展」について

福島さん「パネル展は、無料で提供していました。」

福島さん「パネルは、全部、瀬戸内海の島に入植している時に、
作りました。」

福島さん「島を出るまでの間、20年間、島に暮らして、

自給自足の生活を、送りました。」(※2)

福島さん「その後、胃がんになり、島を出た後、
裕仁(※3)が、病気になったニュースに、
”このままトンズラされてたまるか~”と、
「戦争責任展」を、やりました。(※4)」

「戦争責任展」は、数々の嫌がらせや、悪質な妨害などに、あいました。

■昭和天皇は、戦争責任を、感じたか

この話については、福島さんの著書「ヒロシマの嘘」
284ページから、332ページにも渡り、
およそ50ページ分書かれてあります。

更に詳しく知りたい方は、そちらを読んでもらえれば、
理解も深まると、思います。

・・・・・

福島さんの話から、理解できたことは

”天皇=神”と信じるための徹底した教育のもと、
「天皇陛下バンザイ」を叫んで、
320万もの大勢の命が失われたこと。

ほして、戦後、1970年。

初めて行われた、国際記者会見で、戦争責任と、
米軍の原爆投下について質問されたとき、

昭和天皇「私はそのような言葉のアヤについては、
文学方面を研究していないので、よくわからぬ、

原爆投下は戦争だから仕方がなかった」
と、答えたそうです。

”その一言で、天皇のために死んだ320万の国民の死は、
犬死になった。
その瞬間から、激しく軽視するようになった”

そうです。

(「福島菊次郎さんへのインタビュー5」を終わります)

――――

■注釈■

※1=「原爆と人間の記録」について

以下んページで詳しい紹介をしています。


※2=瀬戸内海の島への入植された時代のこと

福島さんの書かれた、以下の著書にも詳しく記されています

福島菊次郎著「写らなかった戦後2 菊次郎の海」
(現代人文社 2005年)

※2と、※4の、更に詳しい話

”1982年、自給自足の生活を目指し瀬戸内海の島に入植した。”
”その時に作成されたパネルは
彫金展の収益500万円をかけ、7年がかりで
制作した、19テーマ、3300点のパネル。”

”その後、胃がんで入院をされ、1989年、
病院のベッドで、テレビを見ているときに、
昭和天皇の死と出会い、

天皇が戦争責任を果たさないまま死へ「トンズラ」することへの怒りと、
日本の戦争責任を世に問うために再び写真の世界に戻り、
10年がかりで「戦争責任展」「写真で見や日本の戦後展」を
全国520会場、行脚された。”

”昭和天皇が死亡した89年から2003年まで
全国700ヶ所以上に無償で貸し出しされた。”

そうです。色々な資料を参考に、まとめました。

※3=「裕仁」とは

昭和天皇。福島さんは、呼び捨てにされました。
在位期間 1926年12月25日 ~1989年1月7日

・・・・・

「福島菊次郎さんへのインタビュー6」へと続く                       

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最終更新:2013年03月24日 08:36