山口県柳井市まで、2011年9月10日に、カメラマンの、
福島菊次郎さん(当時89歳)のお話を、聞きに行って来ました。
インタビューしたことを、以下にまとめます。

※2013年3月15日で92歳になられます。

また、インタビューした内容は、直後にパソコンが壊れ、
バックアップをとる、という一番大事な、知識が
当時まだ自分にはなかったため、消失。

その直後に、手書きをして、8枚分、記憶を頼りに
インタビュー再現用紙を作成。
そのため、その後、福島菊次郎さんの3冊の著書などを元に、
再度、手直ししたものを、載せております。

福島さんにも、一緒にインタビューにのぞんで下さった
Hさんにも、ご迷惑をおかけしました。

・・・・・・・・・・・・・・・

福島菊次郎さんへのインタビュー1

目次


■掲載許可について
■福島原発事故のこと
■福島を取材予定の話
■原発事故のアメリカと日本の対応の違いについて
■原爆投下へと繋がっている歴史の話
■注釈1~注釈9

★歴史色の濃いページと成っております。

――――

■掲載許可について

福島さん「この話は、お好きに載せていいですよ。

僕も好きなように、自分なりに、どんどん入っていって、
取材をたくさんして生きてきました。

僕は(ブログやホームページなどのこと)やりませんので。

だから、お好きに載せたらいいですよ」

・・・・・・・・・・・・・・・

■福島原発事故のこと

原発事故は、日本始まって以来、未曾有の危機ですよ。

※未曾有(「みぞう」)とは?=
今までに一度もなかったこと。
また、非常に珍しいこと。希有(けう)。みぞうう。

日本の原発は、旧型で、普通30年しか運転できないものを、
40年、ひどいときは、50年以上も、
稼動させているのですからね。

原発事故を招いたのは、原発を建てるのに
国からお金を支払うのを、受け取った、
周囲の人々にも原因がありますよね

さっき、東京の”むねさん(※1)”から
電話がかかりましてね。

今こそ、原発のお金を受け取っていた事実を、
世の中に明かしたいと、言いました。

すると、”むねさん”からは、
「あんた、そんなことしたら、ふくろだたきにあうぞ」
と、言われました。

■福島を取材予定の話

来月福島に行きます。
自費出版の表彰式で、東京に行きますので。

■原発事故のアメリカと日本の対応の違いについて

(ここの内容は、福島菊次郎さんの著書を、多ゆう
合わせて、更に詳しく書いています)

チェルノブイリ原発事故(=1986年)で、
初めてヨウ素剤(※2)の薬が出ました。

それよりも前に、アメリカで、1976年。スリーマイル島の、
原発が、メルトダウンした、原発事故がおきました。

その際、「アメリカ政府が、
放射能予防薬五万人分を、急きょ現地に急送した」
というニュースが流れました
その成分は、「軍事機密だ」といって、
明かしませんでした。

日本は、原爆の放射能障害に関する、分野の、研究も、
何も、できていませんでしたから、
福島の原発事故でも、対応は、全くできないのです。

★ショックなニュース

スリーマイル島原発事故のニュースが流れた当時
放射能障害は依然として不治の難病で、放射能予防薬が
存在するなど、誰も信じていなかったから、
その報道に、ショックを受けた、と
福島さんの著書『ヒロシマの嘘』には書かれてあります。

★”そうだったのか!”

また、反射的に、”そうだったのか”と気づいた、
とも、書かれてあります。

それは、戦後、アメリカ政府は、広島と長崎で、
被爆者10万人をモルモットにして、現時研究を続けてきた
ABCC(=※3、原爆障害調査委員会)
が、放射能予防薬を完成していたとしても、不思議はなかったから、

とも、福島さんの著書『ヒロシマの嘘』には書かれてありました。

――――

★日本政府の対応の遅れは嘆かわしい

安全神話で原発の危険性を隠ぺいしている日本では、
問題にもなっていなかったことを、危惧して、

「もし原発事故が起きたら、どうするつもり(※4)なのだろうか。」

と、福島さんの著書
『ヒロシマの嘘』には書かれてありました。

――――

(福島菊次郎さんのインタビューに、話は戻します)

■原爆投下へと繋がっている歴史の話

そもそも、原爆投下は、第二次世界大戦からの始まりでした。

日本軍は、満州鉄道を爆破、盧溝橋事件を引き起こし、
満州を占領しました。
支那事変(※5)で、支那も占領しましたが、
蒋介石は、頑張って、抵抗しました。

――――

蒋介石は、最後は台湾に、逃げましたが、
日本も、支那も、当時は、国際連盟に加盟しておりまして、

支那は、国際連盟に、
”日本に占領されている”
と、訴えました。

当時、隣村(=山口県熊毛郡室積村(のち光市室積))出身の、
松岡洋右(ようすけ)は、当時、国際連盟に、
「撤退などしない」と、言いに行きました。

そして、国際連盟からも脱退をしました。

当時、英語の話せる外交官がいなかったが、
松岡さんは、初めて、英語でスピーチをした(※6)ので、
「たいしたもんだ」と、周りは、賞賛しました。

松岡さんが、国際連盟から脱退したことを、故郷では、
下松のほうから、長い長い列になって、彼のしたことを、
人々は、「すばらしい」と、称えました。(※7)

・・・・・・・・・・・・

アメリカは、石油や鉄鋼や、そのほかの物資などが、
日本に輸出されないような、経済封鎖を行いました(※8)。

当時日本は、15年間に渡る中国戦線は、膠着状態で、
満州と、支那の占領も、点と線の支配で、硬直状態だったのを、
なんとか打開したくて、

・・・・・・・・・

「石油があるうちに」と、真珠湾攻撃へと踏み切りましたが、
日本は、元々、勝てるとは、思っていませんでした。

ハルさん(※9)が、一生懸命
戦争を回避させようと頑張っていましたが、
その間に、真珠湾攻撃がなされて、開戦となりました。

当時アメリカは、ヨーロッパで戦争をやっていまして、
ノルマンディー上陸作戦で、戦況は大きく変わり、
まきかえしをはかっていました。

アメリカは、ヨーロッパで戦争をしたかったので、
日本が東南アジアなどを多く占領したりなどして、
ここまででてくることは、望んではいませんでした。

当時日本が占領をした、東南アジアなどの国々では、
フィリピンの艦隊だけは強くて例外でしたが、
たいてい、アメリカやヨーロッパの植民地だったために、
自国の軍隊は弱く、

日本に攻め入られた時に、軍を撤退させて逃げるしか
手はありませんでした。

インドは、イギリスの植民地でしたから、
インド艦隊もまた強かったです。

しかし、アメリカは、ミッドウェー島から、巻き返しをはかり、
戦局は転換をしました。

アメリカ軍は、かつて日本軍が使用していた、飛行場に、
B29を配備し、そこから、日本軍を攻撃したりなどしました。

・・・・・

※原爆を投下したのも、B29です。

(「福島菊次郎さんへのインタビュー1」を終わります)

■注釈■

※1=”むねさん”についてご紹介。

2011年9月10日の時点において、福島さんの膨大な、
「パネルは、”むねさん”に預けてあります。」
とおっしゃいました。

当時、もし、福島さんのパネル展を開催したい場合は、
”むねさん”に連絡をするよう、教えてもらいました。

・・・・・

本名=山本宗補さん。フリーランスのフォトジャーナリスト。



こちらのHPの編集の際、山本宗補さんからは、
色々と、誤りの訂正他、貴重なアドバイスを頂きました。

ありがとうございました!

★※2 「ヨウ素材」とは?

●福島菊次郎さんの著書『ヒロシマの嘘』によると

放射能が甲状腺に集中して、成長期の子どもに
ガンや発育障害を起こすのを予防する特効薬として、
衆知の薬となっている。と、書かれてあります。

★チェルノブイリ原発事故時には・・・

”「ヨウ素剤」は、ヨーロッパ諸国では薬局でも売られ、
チェルノブイリ原発事故が発生した時には
薬局に長い行列ができた。”と、あります。

――――

★※3=福島さんの危惧は、危惧に終わらなかった

その後、上の本が書かれてから、8年後の、
実際、2011年3月11日。原発事故が起こった。

その時の日本政府の対応としては、
原発の安全性に関する、国内の一部の専門家らは、
錠剤の即座の服用を勧めましたが、日本政府は
3月11日の事故から5日目まで
錠剤の配布、服用を命じないという、
おおよそ、遅れた対応しか、とりませんでした。

日本政府は、有事に備え、こうした鋭い意見に、耳を傾けるべきじゃった

※4=ABCCとは?=原爆障害調査委員会

「ABCCは、被爆者を治療はまったくせず、
10万人もの被爆者をただ、モルモットにしました。

そのことで、原爆の威力と被害の追跡調査や、
放射能障害の実態、そして、次の核戦争から
いかにアメリカ国民を守るかを研究し続けている。」

(福島さん著『写らなかった戦後 ヒロシマの嘘』より)

――――

ABCCについては、このような詳しいサイトも
ご紹介させて下さい。

●『「広島の視点」原爆・ヒロシマ・平和公園・ガイド・花・英語』より


――――

また、以下んページには、ABCCを
福島さんが取材されたことがかかれてあります。


※5=支那事変とは?


より

――――

支那事変(しなじへん)とは、
1937年(昭和12年)から始まった
日本と中華民国の間で行われた
長期間かつ大規模な戦闘である

(ただし、両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)。

「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、
現在は日中戦争と呼ばれる。

※6=なぜ当時には珍しく、松岡洋右は英語が堪能じゃったか?


より

――――

松岡洋右は、オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランド
などで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、
19年(明治33年)に卒業する。

(中略)

母親の健康状態悪化などを理由に
1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。

松岡はアメリカを第二の母国と呼び、
英語を第二の母語と呼んでいたが、
これは終生変わらなかった。

※7=更に奥に踏み込んで詳しい歴史的背景

●『Wikipedia』より

※満州において日本は1906年に
国策会社である南満州鉄道を設立し、
これ以降日本は中国大陸の北部(満州)における権益を
急速に固めることになる。

その後、1931年に勃発した満州事変などの、
それまでの軍事行動の結果として、
中国大陸北部を中心とする土地をさらに占領し、
清朝の愛新覚羅溥儀を執政とした、満州国を建国していた。

上記のような日本の行動に抗議する中華民国は
国際連盟に提訴し、

国際連盟はイギリスの第2代リットン伯爵
ヴィクター・ブルワー=リットンを団長にする
リットン調査団を派遣する。

当時、蒋介石率いる中華民国は、度重なる内戦により治安が悪く、
緩衝材としての満州国の必要性があることから

リットンは、日本の満州における特殊権益は認めたが、
満州事変は正当防衛には当たらず、

形だけでも満州を中華民国に返すように報告書に記した。

その後1933年2月に行われた国際連盟特別総会において
リットン報告書(対日勧告案)が採決され、可決された。

可決の直後、松岡洋右日本全権は
「このような勧告は受けいることができず、
もはや日本政府は国際連盟と協力する
努力の限界に達した」

と表明し、その場を退席した。

松岡は帰国後国民の盛大な歓迎を受けた。

その後日本は国際連盟を離脱し、
1936年には日独防共協定をドイツとの間に結ぶなど}
イギリスやアメリカなどと対決する姿勢を鮮明にしてゆく。

※8=経済封鎖とはどういったものじゃったか?


より

――――

アメリカによる対日封鎖と経済制裁のあらまし。

1937年(昭和12年)10月5日
ルーズベルトによる「隔離演説」

1939年(昭和14年)7月
日米通商航海条約破棄を通告

1939年(昭和14年)12月
モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として
航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を
停止するよう通知。

1940年(昭和15年)1月
日米通商航海条約失効

1940年(昭和15年)6月
特殊工作機械等の対日輸出の許可制

1940年(昭和15年)7月
国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)

1940年(昭和15年)7月26日
鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立

1940年(昭和15年)8月
石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、
航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制

1940年(昭和15年)同8月
航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸

1940年(昭和15年)9月
屑鉄の全面禁輸

1940年(昭和15年)12月
航空機潤滑油製造装置
ほか15品目の輸出許可制

1941年(昭和16年)6月
石油の輸出許可制

1941年(昭和16年)7月
日本の在米資産凍結令

1941年(昭和16年)8月
石油の対日全面禁輸

※9=”ハルさん”とは?

●ハル(Cordell Hull)  (1871-1955)
アメリカの外交官・政治家。国務長官。
アメリカの元大統領・フランクリン ルーズベルトの側近。

駐米大使・野村吉三郎(のむらきちさぶろう)と、
戦争回避の為の日米交渉を行い、
1941日本の中国・仏印からの撤退、
中国における蒋介石以外の政権を認めないこと、

日独伊三国同盟の廃棄、満州事変以前の中国に戻すこと
などを要求する「ハル・ノート」を提示、

国際連合設立に尽力し、ノーベル平和賞を受賞した。

――――

参考文献

●福島菊次郎著「写らなかった戦後 ヒロシマの嘘」
現代人文社、2003年7月第一版

――――

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2013年03月26日 16:25