前部機械室の八田兵曹が力強く叫びました。パッキン蒸気というのは、パイプのジョイントを包む綿状の物です。蒸気の漏れを防ぐため、パッキンにも蒸気を通しておきます。その状況を確認するため、細い鉄棒で検診をするのです。私達はその鉄棒で時々頭部を叩かれたものです。艦内は冷房装置など何もありませんので、夏など非常に蒸し暑く、飲用水など常に不足していました。
一度使用した蒸気を元の水に戻す復水装置はありますが、そんな事では間に合いません。海水は豊かにあっても何にでも使用できません。その事では大変苦労したものです。

夜になりますと、「巡検後、パート(機械室)に整列」と、いう伝達が甲板士官から出されました。私達は眠い目をこすりながら午後九時の巡検後、パートに降りて行きました。パートでは甲板士官の北兵曹が鉄棒(海兵団では木棒、艦では鉄棒でした)を握り締めて待っていました。

「きさまら、この頃甲板上の歩き方はなんだ、軍人精神がなっとらんぞ」前部機械室に所属する、兵長以下の兵全員が、鉄棒で尻を二回づつなぐられたものです。

艦船同士で手旗信号の外に、機関科などでは、手先信号を使います。機械室の中で全ての機械が発動しますと、その騒音のため人の声など全然聞こえません。そこで手先を使って用達の伝達をします。その訓練も時々行われます。私にはそれがうまく出来ません。たとえば、「後甲板上空に敵機二機襲来」という場合、頭と両手を使って他の者に伝達するのであった。

●休日、島を散策する。



 昭和二十年七月に入った或る日曜日、私は休日ということで島に上陸を許可されました。島の東方に小松という町がありました。その町へ私は歩いていきました。白く乾いた道路が町の方へ続く端に、草だらけの畑の中に赤いトマトの実が数個成っているのが見えました。私はその中の一つを、やにわにもぎ取って食べました。
と、この時二、三米先に農婦らしき女の人が草むしりをしていました。彼女はジロリと私を見て、再び腰を曲げて草取りを始めたようです。トマトの実を食べたのは、帝国海軍の若い少年兵だったので何も言えな
かったのだと、私は思っています。
やがて小さな町に着きました。とある町角に、うらぶれた感じの喫茶店の様な店がありました。のそりと私が入ってゆきますと、中に老婆が一人店番をしていました。
「タコ、しかありませえ」老婆さんが答えます。私はタコを一皿注文しました。小さな皿にタコの足の部分が五切ほど乗っていた。艦内では、こんな料理は出ないので大変おいしく食べたことでした。たしか一皿五銭位ではなかったかと思います。
その時、女学生が三人店に入ってきました。店の奥に私の姿を見て、ハッとした様子でしたが、同じタコを注文し黙々と食べていました。客の一人が、同じ年齢位の少年兵だったので、何の言葉も出なかったも
のと思います。私も何も言いませんでした。

店を出た私は、島の唯一の小学校へ向かって歩いていきました。今日は休日なので生徒はいませんし、教室などには、カギなどありませんでした。(当時は全国どこも同じだったと思います。)
一つの教室に入ってみますと、小さな図書箱の上に弁当箱が置いてあるのが見つかりました。その弁当箱のサイズや包んであるハンカチの色などから想像するに、確か女の先生の持ち物だと思われます。
私はその弁当箱を素早くフタを開いてみました。中味は馬鈴薯の摺りつぶした物中心に、小さな梅干しが一つ入れてありました。
次の瞬間、私はそれを食べていました。翌日、艦内では大分その事件のことがうわさに上っていました。
「昨日よ、島の学校の日直の先生の弁当、クタヤロ、いたんだと。」「まさか兵隊でそんな事する奴いないよな。」下士官兵達が大きな話題にしていたものです。私はそんな話しを無表情で聞き流していたものです。

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最終更新:2013年01月26日 02:42