●終戦を迎える。



昭和二十年八月六日、午前十時頃ではなかったかと思いますが、艦の上部の網目の間から、はるか上空を銀色に輝く胴体を白く光らせながら、B29爆撃機一機が西方の空に飛び去るのが見えました。
翌日、艦の後部甲板の掲示板に、「昨日、広島に新型爆弾投下さる。」との張紙がしてありました。それが後の原子爆弾だったとは、その時誰も知らなかったようです。
八月十五日の終戦の日は何事もなかったように、いつもと変わりなく過ぎてゆきました。数日後、艦隊司令より武装解除の命令が伝達されました。そして間もなく艤装の解体作業が始まりました。
私はこの時、何か新しい事が起きるんじゃないか、といった期待感に満ちた感動をおぼえたものでした。
駆逐艦三隻は各自の縄網を取り除き、外海に出て呉軍港に帰港することになりました。

航行の途中不用になりました高角砲の弾丸や爆雷などを、海中にドボンドボンと水しぶきを上げながら投棄しているのが見えました。そのうち、砲術科の下士官が爆雷の一つを信管を外して投下しました。するとその爆雷は海中何十メートル下で爆発します。その水圧で、海中の遊泳中の魚類が圧死して海面上に浮上します。その中の赤ダイを兵科の下士官と水兵達が、内火艇(エンジン付きボート)に乗り込み、そのタイを拾い上げてきました。
その夜、夕食に主計兵が料理した赤ダイの刺身が、全乗組員に振る舞われました。その時のサシミのイキのいい味は、私にとって生涯忘れることのできないものでした。

呉軍港に帰港してみますと、出航前とはまるで姿が変わっていました。海軍工廠の建物は、見る影もなくガレキと化し、空襲の物凄さを痛感させられました。波止場に停泊した艦はその夜、初めての満艦飾(艦内の電灯を全て灯すこと)となり、空には、満天の星が輝いていました。
(文中、一部実名を使わせてもらいました。)


【著者 経歴】
昭和3年2月26日 谷地町丁一三七番地に生まれる
昭和15年3月谷地町立南部小学校卒業
昭和17年3月町立中部小学校高等科卒業
昭和20年2月1日海軍志願兵として舞鶴市平海兵団入隊
同年6月駆逐艦「槇」乗り組み
同年9月敗戦により解員
元、高成会(地区青年会)会長
元、自衛消防第一部部長
元、河北町自衛消防連合団理事
元、河北町農業共済組合地区共済部長
元、河北町農業共済組合水稲損害評価員
元、西村山大堰土地改良区第2工区代議員
元、西村山大堰土地改良区第2工区換地委員
元、西村山大堰土地改良区第2工区換地小委員会副委員長
元、大堰土地改良区田井堰維持管理組合理事
元、河北町果樹組合総代
元、村社熊野神社総代
元、高中共栄会(農用電機利用組合)代表
元、高中町内会計
元、高中実行組合会計
元、河北町農業委員会委員
昭和57年2月、株式会社アド・タイムシステム取締役会長就任
平成3年4月より町営住宅東団地入居
平成8年4月より東団地区長
平成8年4月より東団地公民館長
平成8年4月より寒河江地区交通安全協会谷地支部理事
平成10年8月14日 逝去



(あとがき)亡き父に捧げます。


この海軍志願兵体験記は私の父、原田俊夫が戦争の実体験を元に書き下ろした体験記です。父は農家の跡取り(長男)として誕生しました。
しかし、父のやりたかった本当の仕事は、新聞記者や執筆活動のようでした。父は嘱託で記者などを若い頃目指していたようですが、あの戦争が勃発、そして日本の敗戦とともに無事帰宅。長男であるということもあり、家業の農業を継ぎました。原田家はもともと地元では有数の地主で、原田の本家は地域の方々から「才兵衛様」と呼ばれていました。原田才兵衛は原田家の初代家長でした。私は父の長男としてこの世に生を受けました。終戦の傷跡がまだ至る所に残っている時代でした。私の子供の頃は、大家族でした。私を含めて曾祖母・祖父・祖母・父・母・妹そして伯父の8人家族が一つ屋根の下で暮らしておりました。私は小学4年の時、自宅の改築工事をしている時にいたずら半分でまだ完成していない屋根にはしごを伝手って昇り2階の屋根の頂上に登りあたりを見渡したことがあります。しかし、降りようとした時、はしごに足を踏み外し、1階の屋根にまともに背中から転落しました。丁度隣に大工さんがいて、「大丈夫か」と声を掛けてくれました。私は本当は背中が重苦しかったのですが、落ちた衝撃で板がむき出しになっている屋根の1部が潰れた事を気にし、「大丈夫です。」と言いました。大工さんも、どういう訳か、「誰にも言わないがら、はやぐ降りろ」と私をかばってくれたように思いました。私はこれ以降この事は親にも言いませんでした。1週間程経過した早朝のこと、私はトイレに起きて小便をしたのですが、何かが変でした。色が赤いきれいな色をした小便が出ているのです。この時はまだ事の重大さに気が付いていませんでした。9歳の年月が過ぎ去ろうとしていた時、3月下旬にもなるのにその年はやけに雪が多かったことを覚えています。いつもの様に朝トイレに行きました。私の家は旧家でしたのでトイレは自宅から数m離れた所に別棟の建物になっていて大用のトビラ付きのものと男子専用の便器が別々に一つの別棟の建物の中にありました。電気が通っていなかったため、照明がなく夜はトイレに行くのが怖かったことを覚えています。そのため早朝にトイレに行くのでした。小便をした瞬間、「どきっ」とする戦慄が私の中を駆け抜けました。小便の色が何と、真っ赤です。しかもまるで血が流れれているように見えました。雪にかけると鮮血が降り掛かったような小便でした。
10歳の少年には、真実を親に言うのは恥ずかしいやら、原因がハッキリしているだけに怒られそうで、結局親にも誰にも言えず2日程血尿をそのままにしていました。

















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最終更新:2013年02月20日 13:48