「不思議な縁が元で聖職者を目指す。」


霊のパプテスマを受けた事を悟り、身も心も聖職者として生きようと決意する。私は毎日欠かさず聖書を朗読した。1996年8月、現在の東北電子専門学校デザイン分野の教師として招かれた。偶然にもグラフィックデザイン科の立ち上げと同時に採用された。それ以来、デザインはわたしにとって指導の術となった。
デザイン界とのコネクションを生かして多くの展覧会を開催した。デザイングランプリTOHOKUの審査委員となり優秀なデザイナーの育成に精を出して働きかけた。教え子は私の期待に応え、次々と上位賞、そしてグランプリをものにした。6年間連続で優秀賞を受賞し続けた。実はその背景に、審査委員長 中村 誠先生との出会いに由来していた。中村先生との出会いは、私が22歳の時、当時デザイン界の登竜門として開催されていた東北宣伝美術展に初出品し入賞をいただいた。その時の審査委員長が中村 誠先生であった。先生は当時、資生堂の宣伝部長をなさっていた。憧れのデザイナーだった。2年連続して入賞したものの、東北宣伝美術展が解散した。それから24年経って再び東北のデザイン界を盛り上げるため、私は中村先生を審査委員長に推薦。
直接交渉し審査委員長に就任していただいたという経緯があります。7年間デザイングランプリTOHOKUの審査委員長として采配を振るっていただいた功績はとてつもなく大きな力になりました。

現在の学校の教師になって6年後、今の妻と結婚。妻も同じ学校に勤務する同僚でした。
父の癌を直すため、この頃 仙台国立病院の近くにマンションを購入し両親を呼ぶ準備をしながら独り就寝しようとしていた時、彼女からの電話が届いたのです。

つき合って欲しいという電話でした。すでに私は48歳。聖職者として生涯独身でいようかとも考えていたのですが、彼女の熱烈なラブコールに引き寄せられるようになりました。
年の差は約20歳、それでも彼女は私の話を真剣に聞いてくれたのです。妻の実家は気仙沼でした。父親は水産会社の魚類の検査員として船乗りと同じ環境にありました。彼女の両親の元に「お嬢さんをください。」と唐突に結婚の意思を告げた事を懐かしく思い出します。

この頃から、中村先生に少し異変が起きていました。岩手の美術館で中村先生の所蔵記念展を開催するとして招待状を受け取り、参加いたしました。いつもなら、「やぁ。原田さん、よく来てくれたね。ありがとう、ありがとう。」と言葉が出てくる筈なのですが、私と視線が合っても声をかけていただけませんでした。何かとても寂しく感じたものです。
でも、それが先生の引退のシグナルであったと1年後に思い知らされました。私たちは中村先生のご恩、そして東北のデザインに貢献されたご努力に報いるため名誉審査委員長として永遠にその名を残すことで意見が一致。中村誠賞を新設し副賞である金メダルは私がデザインし製造したものです。正に記念のメダルです。先生がご存命中に今一度グランプリを学生たちに取らせてやりたいと思っております。











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最終更新:2013年01月30日 19:41