「2011年3月11日、未曾有の大震災が起こりました。」

●震災発生時。3.11

この日は、学校内9階の教室に居ました。学生たちは丁度春休みに入ったばかりで補講を受けに来た学生と就職活動のために私に履歴書を提出に来た学生10名とこれからのことについて話をしていました。
最初は、グラグラと建物が単発的に揺れたので、「皆が地震だ」と言ったものの、その後少し収まったのでそのまま補習を続けていました。でも、また起きるかもしれないと思い、万が一の事もあるので自分の学科の学生をデッサン室に集め、太いロープを繋いで避難はしごを皆で作りました。デッサン室にはスケッチの練習用に様々な素材が置いてあったからです。
このロープを非常階段の鉄の柵に括り付け、9階にある消防隊の出入り口を使って外へ出る計画を立てました。実は、毎年防災訓練を年2回開催しているのですが、その都度思うのは本校の校舎は15階建てです。2500名の学生が一気に数カ所ある非常階段から避難訓練をするのですが、いつも大渋滞、長いときは5分も同じ階段でギュウギュウ詰めで待たされます。「あ〜ぁ、これじゃ皆焼き鳥状態だよね。」という声があちこちから聞こえて来ます。実際に私自身もそのことは感じておりました。震災当時校内に残っていた学生の数は私の学科だけではない筈、沢山の学生が移動する、降りれなくなるのではという不安を感じたため、ロープを伝って消防隊の出入り口から外へ出ようと当時は考えた訳です。しばらくして突然大きく建物が揺れ始めました。
「これは、普通じゃない。」と身の危険を感じた私は、学校の防災訓練のマニュアルには従わず、学生たちに直ちにロープを持って非常階段から非難するよう指示をしました。しかし、揺れは益々激しくなり非常階段に立っている事も出来ないほどの揺れを感じ、ロープを諦め急いで階段を下りてとにかく建物の外に出るよう学生たちを急かしました。その間、私は9階のトイレに残っている学生などがいないかどうか確かめるため、左右に揺れる廊下を通ってトイレに向って叫びました。「誰か残ってないか。」返事が無かったため、急いで非常階段へと向いました。
既に学生たちは下の方に降りて行くのが見えました。と、その途端「グラッ」と校舎が左右に強く揺れたため、私は階段を誰かに後ろから押されたように9階〜8階の階段まで転がり落ちました。途中、鉄の手摺に顔面を強打し、自慢のメガネが鼻先から潰れ割れてしまいました。それでも、私は転がるように階段を駆け下り1階にたどり着いたのです。左足を捻挫していました。足を引きずりながら、正面玄関を抜けました。やはり、学生たちは大勢でした。私が外に出たときは最初学生たちや教職員は中庭に非難していました。学生の数は500名ほど教職員が80名程、校舎を見守るように皆見つめていたのを覚えています。校舎は高層棟と低層棟が繋がってL字型の校舎を形成しているのですが、このお互いの高低のつなぎ目が激しい揺れのため、バタンバタンと互いにぶつかり合うのが確認できました。「倒れる可能性もあるので、向かいの公園に全員非難」という指示がどこからともなく流れ、全員が道路をはさんだ向かいの公園に非難しました。まだ、頻繁に揺れがあるため建物の中には入ることはできません。皆で自分たちの学生たちの確認を行い全員この場所にいる学生に関しては無事を確認しました。
17時を過ぎてもまだ時折、散発的に強い揺れが起こります。時が経ち大分薄暗くなって来た頃やっと揺れが収まってきたのを機会に、学生たちや教職員の現状確認を行いました。交通機関、帰宅方法、自宅の状況、家族との連絡等、幸い市内は途切れがちではあるものの携帯電話が繋がったため家族の状況などが把握できました。
しかし、交通機関は殆ど寸断され仙台駅も入れない状態であるとの事。かろうじて市営バスが運行しているということでバスで帰れる人はバスを利用して帰宅するよう指示が出され、学生たちはその場で解散帰宅、自宅等の状況を確認させ、当日学内に居なかった学生たちも含めて各担任がそれぞれの状況確認をする事を申し合わせ、教職員と帰れない学生のみ校舎に一旦戻り、各自の荷物等を持って帰宅する準備をしました。
交通機関の関係で帰宅出来ない遠距離通学の学生たちを本校の学生寮に分散して泊めることにしてそれぞれ、その日は帰宅の途につきました。私は普段電車で通勤していたのですが、今回の地震で「仙山線」が不通になったためバスで帰ることにしました。あたりは真っ暗で普段の光景とは明らかに違う印象でした。バスは中々バスプールに到着せず、バスを待つ人々で自分が何処行きのバス停に並んでいるのか分からないほど人が大勢バス待ちをしていたのです。
1時間30分位待ったでしょうか。やっとお目当てのバスが到着しました。しかし乗る人が半端な人数ではありません。満員電車ならぬ満員バスに乗り帰宅した。

東北電子専門学校(本校)


○建物への際立った被害はなかったものの、外壁の剥離、各教室のコンピュータのほとんどが
破損した。学校は春休み中で学校での犠牲者はでなかったが、後日判明していくうちに本校生にも複数犠牲になったものがあり、その年の卒業式は中止となった。当時は、卒業生の住所および安否の確認作業に追われながらも卒業証書を郵送することとなった。

東日本航空専門学校(直営姉妹校)

○津波による全校舎の水没(校舎内に30cm~50cm の厚みでヘドロが付着)春休みだった為、人的被災はなし。但し、校舎の改築。補修が必要。グループ全体でローテーションを組み、ヘドロの撤去作業および津波で破壊した航空機を洗浄し格納作業を行った。
ヘドロの中に埋もれてしまった航空機材、航空機の教育用部品や工具を掘り出し、教室内の学生机や教卓等を本校である「東北電子専門学校」に搬送し、再利用すべ
く洗浄作業を行った。校舎が改築するまでの間、東北電子専門学校の教室を提供し授業を行いました。

仙台日本語学校(直営姉妹校:東北電子専門学校内)

海外留学生が中心
○地震による被災と福島第1原発および女川原発の放射能被害を想定し、自国の帰国勧告に基づきほとんどの外人留学生が各国に帰国しました。

避難場所は、校舎の向かいにある花京院公園に全員避難。約80 名の教員の方々が皆、学内の独自のサーバーを経由してのデスクネッツを使って自分の現在の所在を確認した。
教職員の安否の確認は、2 日間。先にも記しましたが、学校は春休み中であったため学生との
連絡は手間取った。学内にいた学生に対しては、本校中庭に学生全員を教職員全員の誘導で避難させ、激震であることを判断した上、花京院公園に避難揺れがおさまったのを確認し、学内の被災状況を確認した上で解散したのです。

震災後翌日から、全教職員が登校し、今後の予定や、それぞれの自宅で被災に遭った学生達の確認に動きました。

■震災当日の帰宅状況
(ア)校舎へ泊まった 2 名(イ)歩いて帰宅した 20 名(ウ)帰宅者受入れ施設の利用 0 名
(エ)その他、臨時市営バス、自転車など利用
学校には、学生食堂と売店があるため、不足はなかった野ですが、このような大規模な自然災害に対しては、人間は無力であると感じました。だからこそ、環境問題をを取り上げた「クリボラ展」の開催は意義あるものと思いました。
余震、および情報収集を怠らずにしたいと思います。今回の被災を受けて感じたことは、仙台は、特に災害が甚大で10,000 人を超える死者が出ました。気仙沼の沿岸部や、陸前高田は壊滅状態となり、荒浜海岸には、500 体近い遺体が打ち上げられまさに地獄絵を見ているようで言葉を失いました。さらに復興を放射能の影が襲いかかってきていました。全ては人間のおごりが招いた結果なのだろうと反省し、クリエーターとしてできることをしていこうと思った次第です。



Copyright (C) 2013 Junichi Harada.All Rights Reserved.
最終更新:2013年02月03日 00:20